プロ運送集団の活躍

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 江戸市中の陸上流通を担った運輸手段としては、人が自らの背に荷物を背負う「背負」、馬の背の鞍に荷物を積む「馬持」、また荷車を人が引く「大八車」、そして「牛車」などがありました。この中でも重量・形状とも最大のものを運べるのが牛車でした。
 したがって、幕府御用の大規模工事や建築に際してはしばしば御用として芝車町の牛牽が動員されていました。たとえば、元禄8年(1695)に生類憐み令の一環として中野村(現在の中野区)に野犬収容施設が急造された際には計170輌が、また、幕末万延元年(1860)の江戸城本丸の再建工事には1日に70輌の牛車が動員されています。
 また日常的には幕府諸役所や諸問屋、商家の需要に応えての業務が営まれていました。これらの業務をおこなう基地、流通センターとして、幕府から江戸橋広小路と八丁堀の2か所に「牛置場」を拝借していました。俵積みしやすい形状の物や比較的軽量な炭薪などは馬鞍が利用されましたが、材木や土・砂・石、鉄金物、銭などの重量物にはもっぱら大八車か牛車が利用されたようです(図5-16-3)。
さらに、神田明神社や根津権現社の祭礼の際には、車をきれいに飾り付け、町にゆかりのある神像や人形、器物を飾り、これを牛が牽き歩きました。日頃江戸の流通を支えている縁の下の力持ちである牛牽たちにとって、これは年に数度の晴れ舞台だったといえるでしょう(図5-16-4)。
(西木浩一)

図5-16-3 「麻布一本松」『江戸名所図会』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

麻布一本松を進む2台の牛車。山のような荷物が積載されている。積載重量の点でもっともすぐれた機能をもつ陸上運輸手段が牛車であった。

図5-16-4 「神田明神祭礼」『江戸名所図会』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

神田明神祭礼で見事に飾り付けた山車を牽く牛と牛牽の姿。江戸市中が沸き立つ祭礼の行列は牛牽たちの晴れ舞台であった。