田中七右衛門知次は、江戸で名を馳せた鋳物師の1人でした。とくに鍋釜は有名で、江戸の名産品のひとつでした。知次は近江栗太郡辻村(現在の滋賀県栗東市)の出で、寛永17年(1640)江戸に下りこの地に金屋を開き、釜七を屋号として鍋釜の鋳造を始めます。知次が金屋を開いた芝田町は海に面しており、舟運の利用が可能で資材等の運搬にとって利便性が高く、裏手の崖から湧水を容易に得られることもあり、金屋の操業にはうってつけでした。しかも、知次が金屋を開いた17世紀前半のこのあたりは民家がまだまばらで、火を多用する鋳造業にとって望ましい環境であったといえます。しかし、明暦4年(1658)に金屋付近から出火して町内が類焼した際に火元と疑われ、また周囲に家屋が建て込んできたこともあり、知次は、金屋を深川大島村(現在の江東区)に移しました。その後、芝田町の金屋は、知次の縁戚によって引き継がれたと考えられます。文政7年(1824)刊行の『江戸買物独案内』に「芝田町五丁目 鍋釜問屋 釜屋源八」(図5-17-4)とあり、深川で釜七が鋳造した鍋釜などの製品を販売していたのかもしれません。もっとも、発掘調査では19世紀前半頃まで土型を製造していたことが確認されていることに加え、鋳造時に排出される鉄滓が多量に出土していることから、このころまで鋳造が続けられていた可能性も考えられます。
図5-17-4 『江戸買物独案内』(部分)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載