江戸鋳物師の技術

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ところで、埼玉県所沢市に所在する狭山山不動寺に76基の銅燈籠が保存されています(平成19年[2007]時点)。これらの銅燈籠は、江戸時代に増上寺徳川将軍家霊廟に諸大名等が奉献したもので、現存する76基のうち72基が文昭院(6代家宣)霊廟に奉献されたものです。
 文昭院霊廟は、正徳2年(1712)増上寺につくられました。奉献燈籠の設置計画をみると、表門に当たる二天門から唐門に至る空間に230基ほどの石燈籠を置き、唐門から宝塔がある埋葬所に至る空間に140基強の銅燈籠を据えることになっていたようです。また、文昭院とゆかりの深い大名が奉献した銅燈籠24基は埋葬所(宝塔)に至る参道に沿って設置する計画であったと推測されます(図5-17-5)。現存する銅燈籠をみると、銅製部分の高さが3mを超すものがあります。下から、基壇、地輪、返り花、竿、仰ぎ花、中台、火袋、笠、宝珠部等に分けられますが、基壇や中台などの彫琢は細かく、表面に鍍金(金メッキ)が施されていた部位もあります(図5-17-6)。文昭院霊廟は、将軍墓にふさわしい仕様と時の最高水準の技術により造営されました。鋳物師の人びとは、この大事業を支えた職人集団のひとつでした。
 銅燈籠には、奉献した大名や隠居、世子の名とともに、鋳造に携わった鋳物師の名が刻まれており、不動寺に現存する75基の銅燈籠から都合31名の鋳物師の名が確認されました。この中に太田近江大掾(だいじょう)藤原正次を見出すことができます(表5-17-1)。
 太田正次は、江戸を代表する鋳物師のひとりで、知次の従弟にあたります。正次は、知次が江戸に出てから10年ほどが過ぎたころ、知次に呼び寄せられ、芝田町の知次の下で鋳造業に従事していました。やがて、正次は独立して深川大島村に金屋を開きます。太田正次の系統は釜六を屋号として鋳造業に励みましたが、明治維新後間もなく廃業したと伝えられています。
 田中知次(釜七)は、鉄製品の他に銅製品を製造していた可能性があります。しかし、将軍家霊廟の奉献銅燈籠の製作に携わった形跡はありません。近世を通じて主に、鍋釜や天水桶などの身近な品々を鋳造していました。
(髙山 優)

図5-17-5 「増上寺文昭院殿御霊屋前御銅燈籠并石燈籠建場之絵図」

表5-17-1 狭山山不動寺に残存する銅燈籠製作鋳物師一覧

表中の数字は残存数、*印のあるものは2名で製作していることを示している。
本表は、所沢市教育委員会文化財保護課編『(埼玉県所沢市上山口)狭山山不動寺所在銅燈籠調査報告書』(所沢市教育委員会、2008年)から作成した。所沢市教育委員会は、平成19年(2007)5月から8月にかけて、狭山山不動寺に現存する増上寺徳川将軍家霊廟奉献銅燈籠76基の詳細な調査をおこなった。増上寺徳川将軍家霊廟には、各大名が奉献した多数の銅燈籠あるいは石燈籠が立ち並んでいた。しかし銅燈籠は、戦時中の金属供出、空襲による被災や、戦後に行われた増上寺境内の整理などにより、多くの現物が失われた。不動寺に現存する銅燈籠から31名の鋳物師の名を確認することができる。

図5-17-6 増上寺・文昭院霊廟に設置された銅燈籠
写真提供:所沢市教育委員会
文昭院(6代家宣)霊廟に米沢藩主上杉吉憲によって奉献された銅燈籠。製作に当たった鋳物師は太田近江大掾藤原正次。