嘉永6年(1853)8月末に起工した品川台場は、翌安政元年12月に至る約1年4か月の期間で合計6基が竣工しました。このうち5基が海上(第一・第二・第三・第五・第六)、1基が陸続き(品川御殿山下)でしたが、6,000~1万坪ほどの非常に大きな砲台を築くには、海中を埋め立て、堅牢な構造にする必要がありました。
幕府は、人足(にんそく)の手配をするとともに主に幕府直轄領の宿町村から木材、石材、土砂、明俵(あきだわら)、野芝(のしば)(芝生)などの構築資材を調達しました。資材の代金と運搬費は幕府の負担です。資材調達にあたっての通達方法は、平時に代官所を通じて宿町村の村役人に回覧し、最後の宿町村(留村(とまりむら))が代官所に戻す「廻状(かいじょう)」でした。この廻状は、代官所が各地に設置した「御用先(ごようさき)」と呼ばれる出張所(詰所)を通じて出されました。その中でも緊急の場合に各宿町村への回覧到達時刻を定める「刻付廻状(こくづけかいじょう)」を使い、短期間で資材が御用先に到着するよう手配したのです。幕府は、御台場の築造に際し、高輪の如来寺(明治41年[1908]、大井村[現在の品川区内]へ移転)に御用先を設け、この場所を本部にしました。明俵の場合、通達から2~4日で如来寺境内への納品が義務づけられました。明俵は、通常、米を詰めて米俵に使われますが(蓋である桟俵(さんだわら)付き)、御台場築造では土砂を詰めて土俵にして海中に積み上げました。築造のなかでも埋立てに使用する資材のひとつとして重宝されたのです。
また、埋立てには民間参入型の請負入札(うけおいいれふだ)制が採用されました。将軍、幕府直轄の大公共事業であり、海上に巨大な人工島砲台を造るという特殊な条件であったため、経験者が招集されたのです。
結果、竣工は計画の半数でしたが、わずかな期間に6基もの大規模な御台場を築くことができたのは、代官所を経由した迅速な情報伝達と資材調達の活用、請負入札制を採用したことによるものといえるでしょう。この背景には、こうしたシステムとその応用を可能にした地域社会の能力があったのです。