御台場の警備とその終焉

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 嘉永7年(1854)11月、幕府は竣工した6基の品川台場に対して、1台場1大名の警備体制を敷きました。この警備体制は、将軍に血筋の近い家門(かもん)大名(親藩(しんぱん))、それに準ずる家格(かかく)の準家門大名、譜代(ふだい)大名を加えて維持され、江戸城無血開城の約1か月前にあたる慶応4年(1868)3月まで約15年間継続されました。
 図5-18-5は第三台場の平面図です。大砲を示す赤丸や三角の印が360度配置されています。大砲の数や種類は御台場や時期によって変化しますが、主に江戸や佐賀、水戸などで鋳造された大砲が30門前後ずつ配備され、周囲約1.5~3kmが直接防衛できる範囲になっていました。多くの藩士たちが警備のために御台場に詰め、外国船の脅威に備えていたのです。
(冨川武史)

図5-18-5 内海三番御台場全図(上・下)
2枚の図面をデジタル処理して結合