御殿山と高輪接遇所

158 ~ 159 / 278ページ
 外国公館が寺院に置かれたことは、さまざまな影響を寺と関係する人びとに及ぼしました。寺では法事をおこなうことが難しくなり、寺院は収入を減らすことになります。さらには外国人と大名家のトラブルも発生しました。このため、幕府は外国公館専用の敷地を確保して公使館をまとめて建設することをめざします。
 文久元年(1861)、幕府は御殿山(現在の品川区)を用地として、外国公使館の建設を開始しました。現在残されている図面(図5-19-3)から、西洋式の建造物が計画されていたことがわかります。しかし翌年、高杉晋作ら攘夷派志士の襲撃を受けて完成直前のイギリス公使館部分が焼失してしまいます。
 攘夷の風潮がおさまってきた慶応2年(1866)、幕府は泉岳寺の門前にイギリス公使館を建設します。高輪接遇所とも呼ばれたこの施設の敷地は4,993坪、公使館の建物のほか、イギリス兵や幕府護衛兵の屯所なども備えていました。その建物を写した古写真(図5-19-4)を見ると、屋根の形は西洋風ながら、縁側や障子といった日本の建具を用いていることがわかります。和洋が奇妙に折衷した東京初の建造物、ということもできるかもしれません。
 現在では都心に瀟洒(しょうしゃ)な建物を構える各国の大使館ですが、そのはじまりの風景はこのようなものだったのです。
(𠮷﨑雅規)
 

図5-19-3 御殿山のオランダ公館の平面図
「品川台五箇国公使館御普請絵図」文久2年(1862)5月 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

図5-19-4 高輪接遇所
『イギリス横浜駐屯軍幕末写真帳』1866~1867年 横浜開港資料館所蔵