近代国家の成立と港区域

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 15代将軍徳川慶喜(1837~1913)が大政奉還をおこなったことで、日本国内の政治は大きく揺れ動きましたが、朝廷や薩摩・長州などを主体とする新政府が戊辰戦争を経て、この後の政権を担っていきました。その政治の中心となったのが、かつての徳川将軍家が拠点とした江戸でした。明治天皇の東行を経て、新しく東京と名付けられたこの地が、現在にも引き続いている首都東京の原点です。戊辰戦争では、西郷隆盛(1827~1877)と勝海舟(1823~1899)らの話し合い(図6-1-2)により江戸城と城下町もほぼ無傷で収まったことも東京が首都になった大きな要因といえるでしょう。
 明治新政府は、諸外国の制度を積極的に取り入れ、中央集権を基本とする新たな国家の枠組みを作り上げていきます。明治11年(1878)に東京15区が誕生し、芝・麻布・赤坂区がそれぞれ成立しました(図6-1-1)。また、学制の公布によって、国民皆学のスローガンのもと、全国各地に大学校、中学校、小学校が設置されていきます。福澤諭吉(1834~1901)の慶應義塾や近藤真琴(1831~1886)の攻玉社(こうぎょくしゃ)などは、私立学校として教育の普及につながるものでした。
 江戸の城下町には大名屋敷が多く配置されていましたが、その多くは収公されました。港区域にあった屋敷地は皇族・華族の邸宅になったほか、海沿いの各屋敷は明治5年(1872)に誕生した鉄道用地となりました。また、青山の郡上藩邸一帯は青山墓地として、埋葬地となって現在も続いています。日本の近代化をすすめる上で急務であった産業の育成にも、港区域は大きく関わっています。政府の赤羽工作分局をはじめ、田中機械製作所や瓦斯(がす)製造所などといった工場が数多く設置されました。また、陸軍の施設も麻布・赤坂区に多く見られました。

図6-1-1 「実測東京全図」明治11年(1878)

明治11年(1878)に東京府は15区6郡に整理された。右はかつての芝・麻布区あたりを拡大したものだが、大名屋敷があった場所には陸海軍をはじめ各省庁の施設が設置されていることがわかる。また、周辺の三田村や白金村はまだ開発が進んでいない。

図6-1-2 江戸開城西郷南洲勝海舟会見之地(芝五丁目)

旧薩摩藩邸で江戸開城が話し合われたことにちなみ、昭和29年(1954)に本芝町会が町会結成15年を記念して建立した。石碑表面の文字は西郷隆盛の孫で元法務大臣の西郷吉之助によるもの。令和5年(2023)まで工事のため移設中。