関東大震災と空襲

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 大正12年(1923)9月1日に起こった巨大地震は、東京・横浜をはじめ大きな被害をもたらしました。いわゆる関東大震災からの復興は国を挙げて取り組んだ課題です(図6-1-3)。この震災復興によって大きく変化を遂げたのが、隅田川口から品川にかけての海沿いの一帯です。東京港の修築は、明治初期からの課題でしたが、隅田川口の浚渫(しゅんせつ)土などを用いて芝浦や豊洲などの埋立地が誕生しました。日の出・竹芝桟橋や芝浦岸壁などが段階的につくり上げられ(図6-1-4)、昭和16年(1941)に東京港は完成しました。
 また、内陸の区画整理事業によって江戸時代以来の道路幅の拡幅などがおこなわれ、昭和5年(1930)には麻布方面と芝海岸方面を結ぶ愛宕隧道(ずいどう)が竣工しています。新橋駅の周辺には喫茶店や飲食店などが増え、銀座に近接した地域として賑わいを取り戻していきます。そして、新橋や芝浦の花柳界も再び発展していきました。
 一方、震災の被害を教訓として制定された東京非常変災要務規約にともなって、昭和7年(1932)に設置されたのが東京市連合防護団でした。帝都東京を護る自治組織が初めて出動したのは昭和11年(1936)の二・二六事件においてです。
 その後、日中戦争を経てアメリカと開戦した日本は、マリアナ諸島をアメリカに押さえられると本土への爆撃を受けるようになります。港区域では、昭和19年(1944)11月24日の東京湾を皮切りに被害を受け、特に3月10日と5月24・25日の空襲によって大きな被害がもたらされました。皇居をはじめ、皇族・華族の邸宅はもとより、多くのビルや住宅が焼失しています。この被害の中には関東大震災も乗り越えた増上寺五重塔も含まれています。
(龍澤 潤)

図6-1-3桜田本郷町御成門附近街路工事『復興事業進捗状況 昭和4年12月末現在』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

桜田本郷町(現在の西新橋)から南方を写したもので、幹線第16号線(現在の日比谷通り)の街路の復興工事の状況を伝えている。中央に路面電車、その隣に車道、歩道と設けられ、道路幅も均一に整備されている。通りの周辺の建物もほぼ新しく建てられており、復興が進んでいることを示すものである。

図6-1-4「東京港の一部芝浦」『大東京写真帖』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

昭和初期に刊行された日本各所を紹介する写真集で、東京湾の築港計画がほとんど完成しようとするころの芝浦ふ頭の様子も撮影されている。左側に写っているのは跳ね橋で、普段は列車が通行し、船が通るときに跳ね上がるしくみになっているもの。