慶応3年(1867)12月9日、朝廷はいわゆる「王政復古の大号令」を発します。これは10月14日に徳川慶喜による大政奉還を受けたものでした。幕府や摂政・関白職を廃止し、新たに総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を設置するなど、新たな政治主体を作り出そうというものでした。この結果、徳川家を中心とする旧幕府軍と薩摩・長州を中心とする新政府軍の間で引き起こされたのが戊辰戦争です。
翌慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いを引き金として、旧幕府軍と新政府軍が各所で戦闘をおこなっていきます。鳥羽伏見の戦いで勝利をおさめた新政府軍は、東征軍を編成して、東海道を進軍していきます。一方、敗戦をうけて、大坂城を離れた徳川慶喜は上野寛永寺に移って謹慎します。新政府軍内では、慶喜や旧幕府軍に対する処遇についてさまざまな意見が交錯していました。
3月13日、14日の両日、徳川家を代表して会計総裁大久保一翁と陸軍総裁勝海舟ら、新政府軍を代表して大総督府参謀西郷隆盛らによる江戸開城交渉が、田町の薩摩藩邸でおこなわれました。この場で、江戸城の明け渡しと慶喜の水戸謹慎などが決められ、江戸城総攻撃は中止されました。そして、4月11日に慶喜は上野を出発して水戸の弘道館へ移り、江戸城は新政府軍に引き渡され、21日に大総督府有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が江戸入城を果たしました。その後、江戸市中や周辺地域では、官軍に対する反発から旧幕府軍との小競り合いが起こり、閏4月3日には撒兵隊(さっぺいたい)による市川・船橋戦争、5月15日には上野彰義隊との上野戦争が引き起こされましたが、いずれも旧幕府軍の敗北に終わっています。