このように江戸市中は、上野周辺以外ではほぼ大きな破壊もなく、新政府軍に引き継がれましたが、市中の混乱は続いていました。新政府内では新たな政治の中心地を京都にするのか、幕府のあった江戸にするのか、大久保利通の建言した浪華(なにわ)(大阪)遷都にするのか、意見がまとまっていませんでした。東征軍に加わっていた大木喬任(たかとう)、江藤新平からは東日本の抑えとして江戸に京を置き、東西二京の設置案が出され、前島密(まえじまひそか)らは大久保利通に対して建白書を認め、江戸遷都を提案します。結局、三条実美ら公家の意向や京都周辺の世論を踏まえた上で大木・江藤の意見が取り入れられて、東西二京の設置に向けて動いていきます。
慶応4年(1868)7月、明治天皇の詔書が出されました。その内容によれば、江戸が東国第一の「大鎮」(大きな町)であり、「四方輻輳(ふくそう)之地」(各地からひと・ものが集まってくる場所)であるということから、天皇自らその地に赴いて政治をおこなうこと、それにともなって「江戸」の名前を「東京」とするというものでした。この詔書を受け、10月13日に明治天皇が東京に到着、江戸城が皇居と定められました。