明治天皇の東行と港区域

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 明治天皇一行3,000余人は、江戸城に入る直前に現在の港区域を通行しています。実際には品川宿の行在所(あんざいしょ)を出発して、高輪大木戸(図6-2-2)を通過し、高輪の久留米藩有馬頼成(よりしげ)別邸にて小休止をとり、品川の海浜の景色を眺めています。そして、午前11時頃に増上寺に到着しますが、この時に天皇を乗せた鳳輦(ほうれん)が大きすぎて、そのままでは大門を通ることができなかったため、「め組」のとび職が大門内の通行する部分を掘り下げたというエピソードが残されています。到着後、楽器の演奏がおこなわれたり、増上寺側から金屏風25双を献上したりするなど一行を丁重に歓待し、午後1時に増上寺を出発して江戸城へ向かっています。
 江戸城到着後、新政府は江戸市民に対して配慮し、東幸を祝して100軒以上の町へは3樽、50軒以上の町へは2樽、それ以下の町へは1樽の酒を下賜し、するめや土器もあわせて贈っています。この下賜を受けて、11月6、7の両日は、江戸市中にてこの酒を飲み、天盃頂戴(図6-2-3)として飾り車や屋台なども出て、天皇の東京行幸をお祝いしました。このようなイベントもあり、江戸市中の混乱も徐々に落ち着きを見せることとなるのです。
 明治天皇は、孝明天皇の三年祭などのため、12月に京都へ還幸しますが、翌年の3月に再度東京へ行幸しました。その後、京都にあった政府の出張所が相次いで廃止され、首都機能は東京へ移ることになるのです。
 明治5年(1872)3月、赤坂の元紀州藩邸は明治天皇の離宮となり、翌年に皇居が火災によって焼失すると、明治21年(1888)まで仮皇居となりました(図6-2-4・図6-2-5)。明治42年(1909)、この場所に東宮御所が建てられ、現在は迎賓館赤坂離宮となっています。
(龍澤 潤)

図6-2-2 三代広重「高輪大木戸」『東京名勝図会』1868年

図6-2-3 三代広重「御酒頂戴」
東京都公文書館所蔵

図6-2-4 赤坂離宮正門『皇室写真帖』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

図6-2-5 赤坂離宮玄関『皇室写真帖』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載