変わる大名屋敷と寺院境内

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 明治新政府は、原則として大名屋敷を中心とするすべての武家屋敷を収公して一部は各大名に再下賜し、それ以外は用途目的による再編成を進めました。これにより多くの大名屋敷が、主に皇族・華族の邸宅や政府用地に変わります。例えば、汐留地区に構えられた龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家・会津藩保科(松平)家の大名屋敷跡は民部省用地となり、明治5年(1872)には日本最初の本格営業の鉄道駅に生まれ変わりました(図6-3-2[左]の①)。また、御三家のひとつ紀伊徳川家の上屋敷跡は、明治6年(1873)5月に皇居が焼失した後、しばらく仮皇居に宛てられます(図6-3-2[左]の②)。その他、教育場から勧業局育種場となった薩摩鹿児島藩島津家の芝の屋敷跡、赤坂檜町鎮台兵営となった長州萩藩毛利家の屋敷跡など、数多くの大名屋敷が明治に入り変貌を遂げました。現在、国立科学博物館附属自然教育園や東京都庭園美術館がある讃岐高松藩松平家の屋敷跡は海軍火薬庫に変わりましたが、その当時構築された土塁の一部が自然教育園内に残存している可能性があります。
 寺院では、徳川将軍家の菩提寺であった増上寺の広大な境内が縮小を余儀なくされ、軍用地や公共施設の用地へ姿を変えていきました。

図6-3-2 「嘉永改正御江戸大絵図」(部分・加工)嘉永元年(1848)改正(左)と
「実測東京全図」(部分)明治11年(1878)(右)