青山墓地は明治7年(1874)9月1日に開設されました(図6-3-4)。敷地面積は約263, 600m2で、開設以来124,000人ほどが埋葬されています。
ところで、青山百人町続キ足シ山と渋谷羽根沢村に神葬墓地が開かれる前、屋敷の一画に神葬祭によって葬られた元大名がありました。佐賀藩第10代藩主鍋島直正(なべしまなおまさ)(閑叟(かんそう))です。
鍋島直正は、文化11年(1814)に生まれました。天保元年(1830)17歳で佐賀藩藩主に就き、幕末期にはいち早く藩の近代化に着手、戊辰戦争では官軍を勝利に導き、維新後は新政府の政策遂行に大きく貢献しました。明治3年(18 70)、病に倒れた直正は、翌4年1月18日に死去しました。廃藩置県直前のことです。佐賀藩は直ちに葬祭の段取りを開始します。既に神道を国家の中心とすることが方向づけられていたことや、明治2年(1869)に華族に列せられたことを踏まえ、葬儀を神葬によって執り行う方針が間もなく決まりますが、埋葬地についてはなかなか結論が出ず、2月15日になって漸(ようや)く麻布別邸に造営することが決定しました (図6-3-5)。この地は、鍋島家の江戸菩提寺である麻布賢崇寺(けんそうじ)に隣接し、同家が抱屋敷(かかえやしき)として所持していたものでした(図6-3-6)。先の青山墓地とはいささか経緯は異なるかもしれませんが、居住地が埋葬地として利用された一例です。
図6-3-3 百人組同心大縄足地(青山霊園立山墓地)と郡上藩青山家下屋敷(青山霊園)の位置
『増補港区近代沿革図集 赤坂・青山』(港区教育委員会、2006年)より作成
図6-3-4 青山共葬墓地の図『新撰東京名所図会』
資料提供:国立国会図書館
図6-3-5 鍋島家麻布墓所
図6-3-6 「東都麻布之絵図」(『江戸切絵図』尾張屋版、部分・加工)にみる佐賀藩抱屋敷