生者の住まいから死者の住まいへ

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 明治5年(1872) 7月13日、明治新政府は青山百人町続キ足シ山と渋谷羽根沢村(現在の渋谷区広尾)の2か所を、神葬墓地とすることを定めました。それまで江戸では、各寺院に付属する墓地に檀家が墓を造営して埋葬することが一般的でした。神葬や儒葬を埋葬方式としていた家や人びともありましたが、基本は仏葬でした。しかし、明治維新に際して起こった、神道国教化に向けた動きがある中で、神葬墓地の整備は急務でした。青山百人町続キ足シ山、渋谷羽根沢村は、既に皇族・華族の埋葬地となっていましたが、明治5年(1872)7月13日をもって一般国民にも開放されました。同年11月28日、新政府は、郡上藩(現在の岐阜県)青山家屋敷跡、雑司ヶ谷御鷹部屋跡、上駒込村建部邸跡、深川数矢町三十三間堂跡の4か所を追加し、合計6か所の新たな葬祭地が整備されることとなりました。これらのうち、青山百人町続キ足シ山は、江戸時代の百人組同心大縄足地の南端の一画に当たり(図6-3-3)、ここに現在の青山霊園立山墓地がつくられました。ちなみに足シ山は追加された土地であることを意味し、後にたて山となり、今日の立山と表記されるようになったと推測されています。郡上藩青山家屋敷跡に整備された墓地が現在の青山霊園に相当します。江戸時代に青山家の下屋敷(図6-3-3)であったこの地は明治新政府によって収公された後、明治5年(1872)11月28日葬祭地に定められ、大名の居住地は一転して数多(あまた)の死者が眠る場所になったのです。ほかの4か所は、雑司ヶ谷御鷹部屋跡が現在の都立雑司ヶ谷霊園、上駒込村建部邸跡が都立染井霊園に当たりますが、渋谷羽根沢村と深川数矢町三十三間堂跡(現在の江東区富岡二丁目)は廃止されています。
 青山墓地は明治7年(1874)9月1日に開設されました(図6-3-4)。敷地面積は約263, 600m2で、開設以来124,000人ほどが埋葬されています。
 ところで、青山百人町続キ足シ山と渋谷羽根沢村に神葬墓地が開かれる前、屋敷の一画に神葬祭によって葬られた元大名がありました。佐賀藩第10代藩主鍋島直正(なべしまなおまさ)(閑叟(かんそう))です。
 鍋島直正は、文化11年(1814)に生まれました。天保元年(1830)17歳で佐賀藩藩主に就き、幕末期にはいち早く藩の近代化に着手、戊辰戦争では官軍を勝利に導き、維新後は新政府の政策遂行に大きく貢献しました。明治3年(18 70)、病に倒れた直正は、翌4年1月18日に死去しました。廃藩置県直前のことです。佐賀藩は直ちに葬祭の段取りを開始します。既に神道を国家の中心とすることが方向づけられていたことや、明治2年(1869)に華族に列せられたことを踏まえ、葬儀を神葬によって執り行う方針が間もなく決まりますが、埋葬地についてはなかなか結論が出ず、2月15日になって漸(ようや)く麻布別邸に造営することが決定しました (図6-3-5)。この地は、鍋島家の江戸菩提寺である麻布賢崇寺(けんそうじ)に隣接し、同家が抱屋敷(かかえやしき)として所持していたものでした(図6-3-6)。先の青山墓地とはいささか経緯は異なるかもしれませんが、居住地が埋葬地として利用された一例です。

図6-3-3 百人組同心大縄足地(青山霊園立山墓地)と郡上藩青山家下屋敷(青山霊園)の位置
『増補港区近代沿革図集 赤坂・青山』(港区教育委員会、2006年)より作成

図6-3-4 青山共葬墓地の図『新撰東京名所図会』
資料提供:国立国会図書館

図6-3-5 鍋島家麻布墓所

図6-3-6 「東都麻布之絵図」(『江戸切絵図』尾張屋版、部分・加工)にみる佐賀藩抱屋敷