「学校」普及の取り組み

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図6-4-1 「東京小学校教授雙録」 明治10年(1877)


 
三代(歌川)広重が描いたもので、師範学校や華族学校などとともに、当時東京市内にあった学校がすごろくとなっています。まだまだ認知度が低い学校の存在を世間に広めるため、さまざまな取り組みがおこなわれましたが、その一端を担うものと位置づけられます。港区域では、赤坂・鞆絵(ともえ)・南山(なんざん)・桜田の各小学校と桜川女学校が取り上げられています。
〈→『通史編』近代 第一章〉