東京における学校のはじまり

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 明治新政府による新たな国家のしくみ作りの中で、教育制度の整備は重要なものでした。慶応4年(1868)7月、東京府は市中所々に「筆算稽古所」を設置する旨を通達します。これは、幼年の時から「教育不宜」の状況に置いておくと、法令を守らないなど社会生活に支障をきたすためであるとしています。また、教育を奨励することによって、「謹直誠実」な人物となり、国益にもつながっていくことであり、稽古所に掛かる費用や指導者の人選は東京府が準備するので、くれぐれも町内に触れ知らせるようにというものでした。
 新政府においても、12月に木戸孝允(きどたかよし)が全国に学校を設置し、教育を施す必要を建言しています。それを受けて翌年2月、府県に対して「府県施政順序」を公布し、その中に「小学校ヲ設ル事」の一項を加えています。東京府では、3月に中小学取調掛が設置され、公立小学を6校つくることを計画しました。それが、芝増上寺地中源流院(第一校)、市ヶ谷田町洞雲寺(第二校)、本郷丸山本妙寺(第三校)、浅草新堀西福寺(第四校)、本所番場町妙源寺(第五校)、深川霊巌寺地中松林寺(第六校)です。このうち、本所妙源寺と深川松林寺の代わりに牛込萬昌院と深川森下町長慶寺が選ばれ、6月に相次いで開校しています。これらはいずれも寺院内の施設を活用するものであり、とりあえず新たな制度に対応しなければならないという一時的なものでした。
 第一校となった芝増上寺地中の源流院は6月12日に開校することが決められ、実際には25日に開校しています(『鞆絵(ともえ)小学校創立95周年記念誌』)。初代校長は大訓導(くんどう)村上珍休です。村上は、明治15年(1882)に東京府が刊行した『東京府地理教授本』の編集を担当しています。のちには第四高等学校(現在の金沢大学)の教員も務めています。生徒は午前8時に机と硯箱(すずりばこ)、弁当を持って登校し、いわゆる普通学(句読・習字・算術・語学・地理学)を学びました。

図6-4-2 芝増上寺源流院

図6-4-3 鞆絵小学校卒業生(上が男子、下が女子) 明治36~38年(1903~1905)頃