文部省の設置と港区域の小学校

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 明治4年(1871)、政府内に文部省が設置され、11月には私塾も含めた学校全てを文部省が管理する旨の通達を出しています。これにともなって東京府が設置した公立小学校も文部省に移管されています。翌年に学制が公布され、日本全国を八大区に分割、さらに一大学区につき32中学区、一中学区につき210小学区に分け、それぞれに大学、中学校、小学校を配置するものです。また、学校の所管は再び府県へ移ることになりました。ところが、新政府の財政はまだ学校を設置するほどの余裕はなく、私学や私塾を小学校の代わりに許可を与えることで対応せざるを得ませんでした。
 港区域は第一大学区のうち、おおよそ旧芝・麻布区域が第二中学区、旧赤坂区域が第三中学校に含まれることになりました。当初は13校が開校され、第二中学区の第1番は東京府公立小学第一校の流れをくむ鞆絵小学校でした。鞆絵小学校は、当初開校時の源流院境内から西久保巴(ともえ)町に移転し、学校名も巴町の「巴」からつけられたものです。また、そのほかに新設されたのは第二中学区では、第15番麻布小学校(明治8年[1875]6月)、第22番白金小学校(明治9年1月)、第26番桜田小学校(明治10年4月)、第27番南山小学校(明治9年12月)、第39番芝小学校(明治12年2月、図6-4-6)、飯倉小学校(番号不詳、明治11年11月)の6校、第三中学区では、第3番茜陵小学校(明治6年9月、のちの赤坂小学校)、第17番青山小学校(明治8年11月)の2校です。また、第二中学区第2番の桜川小学校(明治6年4月)は、愛宕下町に開塾した育幼社、第3番の御田小学校(明治6年3月)は、三田台裏町に開塾した開蒙社が公立小学校として組み入れられたものです。また、明治8年(1875)に開校した山本学校は、幕府御家人山本氏の御家流筆学所を起源とし、明治26年に公立学校の代用小学校となる丹後町尋常小学校となりましたが、明治30年に廃校となりました。
 鞆絵小学校(図6-4-3)は、平成3年(1991)に同じく学制公布によって開設された桜田小学校と桜小学校と統合して御成門小学校となりました。また、当初第一校が設置された増上寺地中の源流院は、アジア・太平洋戦争の空襲で焼失して移転しましたが、本来あった場所である芝公園内に日本近代初等教育発祥の地の記念碑と説明板が設置されています。また、学制公布時に設置された小学校のうち、御田(みた)小学校・白金小学校・芝小学校・麻布小学校・南山小学校・赤坂小学校・青山小学校の7校は、今もその歴史を受け継いでいます。
(龍澤 潤)

図6-4-4 旧桜小学校書棚(港区立郷土歴史館展示)

図6-4-5 第三中学区第3番小学赤坂学校

図6-4-6 開校当時の芝学校(現在の芝小学校)