勝海舟と港区域

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 幕末から明治を代表する人物のひとりである勝海舟(図6-5-2)は、西郷隆盛らと江戸城総攻撃前に幕府側の代表のひとりとして芝の薩摩藩邸で会談したことはよく知られています。しかし、それ以前にも港区域との関わりが見られます。
 天保14年(1843)、海舟は赤坂溜池の福岡藩邸にて蘭学者永井青崖(ながいせいがい)に弟子入りし、蘭学を学びました。はじめは家のあった本所から通っていましたが、弘化3年(1846)に赤坂田町へ転居します。そして、嘉永3年(1850)には蘭学塾を開きました。徳富蘇峰(とくとみそほう)(1863~1957)が昭和7年(1932)に著した『勝海舟伝』には、「海舟と蘭学塾」という項目があり、海舟の蘭学塾出身者でその塾頭となった杉純道(亨二(こうじ))が赤坂田町の住居について語った部分が引用されています。
 その引用によれば、ある日はじめて純道が海舟の家を訪れると、内側からも外側からも突っ張り棒がしてあった「貧乏らしい」家に住んでいて、初めて訪れた時の話の内容は覚えていないが、とにかく住居のことが印象に残ったことが記されています。純道が2度目の訪問の際、海舟の塾で教授することを希望し、海舟も受け入れて塾頭となりました。その後、安政6年(1859)頃からは赤坂氷川社の裏手に転居しています。江戸城無血開城の後、徳川家達(とくがわいえさと)(1863~1940)に従って静岡へ移りますが、明治5年(1872)に再び赤坂氷川町に戻り、明治32年に亡くなるまで住んでいました。この場所は、昭和30年(1955)に勝安房邸跡として東京都指定旧跡となっています。
 

図6-5-2 勝海舟の肖像
国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載

図6-5-3 勝安房邸跡碑(赤坂六丁目)