福澤諭吉と慶應義塾

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 海舟同様にこの時期を代表する人物のひとりである福澤諭吉(図6-5-4)も港区域とはつながりの深い人物です。
 諭吉は、中津藩士の家に生まれ、大坂の適塾へ入塾、安政4年(1857)には22歳の若さで塾頭となりました。そして、翌年江戸へ出て、築地鉄砲洲(てっぽうず)の中津藩邸に蘭学塾を開きます。諭吉は横浜での見聞の結果、オランダ語ではなく英語の必要性を感じて独学で英語を習得し、文久3年(1863)には蘭学から英学塾へ転向しています。
 慶応3年(1867)、芝新銭座の有馬家控屋敷の土地を購入し、翌年に校舎が完成しますが、諭吉はこの塾を当時の元号を取って慶應義塾と名付けました。さらに明治4年(1871)、三田の旧島原藩中屋敷約1万2,000坪を貸し下げられ、翌年には払い下げられています(図6-5-6)。それ以来、慶應義塾の本拠地として現在まで受け継がれています。また、明治8年(1875)には、日本最初の演説会の会堂となる三田演説館が建てられました(図6-5-1)。これは、諭吉や門下生たちによって、西洋の演説や討論の方法を研究するためにつくられたもので、竣工前の明治7年(1874)6月には第1回の演説会が開催されています。この建物は、大正13年(1924)に現在地に移され、昭和42年(1967)には国重要文化財に指定されています。諭吉は明治34年(1901)に死去しますが、自邸は亡くなるまで慶應義塾の敷地内にあり、現在旧居跡には「福澤諭吉終焉之地」碑が建てられています。
 

図6-5-4 福澤諭吉の肖像
国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載

図6-5-5 福沢・近藤両翁学塾跡碑(浜松町一丁目)

図6-5-6 慶應義塾構内福澤先生居宅の遠景(『東京景色写真版』明治26年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載


 ちなみに明治4年(1871)に慶應義塾が三田へ移転したその跡地には、旧鳥羽藩士近藤真琴が創立した攻玉塾が移転してきます(図6-5-7)。攻玉塾は、文久3年(1863)に四谷の鳥羽藩邸内に開かれた塾で、明治初年に一時閉鎖されるものの、明治2年に麹町の旧鳥羽藩邸内で再開、その後、真琴が築地海軍操練所に勤めることになったために、塾も移転して攻玉塾と名付けられています。芝新銭座への移転に当たっては、諭吉の配慮もあり、諭吉が土地取得に費やした1,300両のわずか4分の1ほどにあたる300両で譲っています。この攻玉塾は英学や数学のほか、航海術も教えていました。また、修学者は海軍中尉や少尉に採用されるなど、海軍兵学校の予備校的な役割を果たしていました。明治14年(1881)に攻玉社と改称しますが、関東大震災後に荏原(えばら)郡大崎町(現在の品川区西五反田)へ移転しました(現在の攻玉社中学校・高等学校)。昭和30年(1955)、慶應義塾・攻玉社のあった場所は、「福沢・近藤両翁学塾跡」として東京都指定旧跡となり、記念碑が建てられています(図6-5-5)。
 これ以外にも、明治9年(1876)には赤坂区青山北町に東京府師範学校(現在の東京学芸大学)、明治16年には陸軍大学校が、明治20年には麻布区新堀町に東京獣医講習所(現在の麻布大学)が設立されました。また、同年には明治学院が築地から白金台に移転してくるなど、多くの教育機関や私塾が港区内に設置されました。
(龍澤 潤)
 

図6-5-7 近藤真琴の肖像
写真提供:攻玉社学園