明治2年(1869)、明治政府は鉄道敷設を決定します。伊藤博文や大隈重信らの主導のもと、大蔵省造幣頭と民部省鉱山正を兼任していた井上勝(いのうえまさる)(1843~1910)が担当することになりました。井上勝(図6-6-3)は、長州藩士で文久3年(1863)に伊藤博文や井上馨(かおる)らとともにイギリスへ密航し、鉱山や鉄道の技術を学んでいます。その後、官僚として全国各地の鉄道敷設に関わるのみならず、明治29年(1896)には大阪にて汽車製造合資会社を設立し、機関車の国産化をすすめるなど、日本における鉄道事業に貢献し、のちに「日本の鉄道の父」と呼ばれた人物です。
翌年3月、イギリス人の技師エドモンド・モレルが着任して、新橋駅から鉄道の敷設工事が始まりました。モレルは、この年に来日したばかりですが、イギリス公使パークスの推薦もあって、日本最初の鉄道工事に携わることになったのです。ところが、翌明治4年(1871)、肺病のため、工事の完成を見ることなく亡くなっています。
明治5年(1872)1月20日、品川停車場が完成し、5月7日には品川~横浜間で仮営業を開始します。新橋から品川の間の工事は、用地買収や測量工事に手間取ります。周辺住民の反発もさることながら、品川八ツ山や浜御殿付近は兵部省の抵抗があり、路線の変更も余儀なくされました。その結果、品川や高輪付近では土地を埋め立てて鉄道を敷設しています。6月30日、新橋停車場が完成し、7月25日には新橋~品川間の線路の敷設工事も完了しました。新橋停車場は、アメリカ人の建築家リチャード・ブリジェンスによって設計され、木造2階建ての西洋建築による駅舎は、近代東京のターミナル駅として相応しいものであり、駅舎・ホームだけではなく車庫や倉庫、外国人官舎なども設けられていました。
9月9日、明治天皇御臨席のもと、鉄道開通式を開催する予定でしたが、悪天候のために12日に延期されています。午前10時に新橋駅から乗車して、11時に横浜へ到着し、開通式がおこなわれ、12時に横浜を出発して午後1時に新橋に戻って式典が開かれています。そして翌13日から正式に新橋~横浜間の営業が始まりました。
図6-6-3 井上勝の肖像
国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載