東京府の設置と地方行政制度の成立

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 慶応4年(1868)4月の江戸開城後、江戸市中の取り仕切りは市政裁判所がおこなうこととなりました。市政裁判所は5月に設置され、江戸時代に南・北町両奉行の支配下にあった範囲を受け持つ行政機関でした。ところが、7月に明治天皇の東京行幸と江戸の名称が東京と改められるのにともなって、東京府が設置されることとなります(図6-7-2)。東京府庁舎は、幸橋御門の脇にあった大和郡山藩主柳沢甲斐守邸(現在の千代田区丸の内)に設置されることとなり、8月には市政裁判所から移転しました。
 明治4年(1871)、東京府が所管する地域が広がり、6大区97小区に分けられることになりました。その後も何度か区域の変更を経て、明治11年(1878)7月に郡区町村編制法などからなる三新法が公布され、明治政府による地方行政の組織が作り上げられていきます。この法律を受けて、11月に東京府布達が出され、それまでの大区小区による区画を廃止し、新たに麹町・神田・日本橋・京橋・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・小石川・本郷・下谷・浅草・本所・深川の15区と荏原(えばら)・東多摩・南豊島・北豊島・南足立・南葛飾の6郡に編成することとなりました。芝・麻布・赤坂の3区と荏原郡の一部が、現在の港区域となります。

図6-7-2 「東京大絵図」
明治2年改正 東京都公文書館所蔵