芝・麻布・赤坂区の成立

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 芝区は、当初芝公園地内の浄土宗安養院内(図6-7-4)に場所を借りて開庁しました。初代芝区長には、旧静岡藩士相原安次郎が任命されました。
 相原は、尊王攘夷運動に傾倒し、一時幕府の嫌疑を避けるために北関東に身を隠しましたが、慶応3年(1867)に再び徳川慶喜に仕えます。その後、徳川家達(いえさと)について静岡藩へ出仕、明治4年(1871)には江原素六(えばらそろく)らとともに新政府の海外視察団に選ばれて各国を歴訪します。明治7年(1874)に宮崎総五によって架けられた安倍川架橋を提案したことでも知られています。初代芝区長を務めた後、明治13年(1880)に茨城県少書記官、その後静岡県警部長などを歴任しました(山田万作『岳陽名士伝』1891)。区役所は、明治19年(1886)9月、愛宕町三丁目6番地に移転しました。そして大正12年(1923)の関東大震災の後、大正15年に芝公園内に移転します。これは現在の芝地区総合支所が建てられている場所です。
 麻布区は、麻布宮村町63番地の龍澤(りゅうたく)寺内(図6-7-6)に設置された第2大区12小区区務所にて開庁しました。初代麻布区長は、神奈川県士族である前田利充が任命されました。前田は、相原安次郎の後、第2代芝区長を務め、赤坂区長も兼任しています。明治12年(1879)、明治天皇から東京府に下付された分配金を活用し、玉川上水から分水される麻布水道を区内有志の発起人とともに敷設しました。区役所は、明治15年(1882)に麻布市兵衛町二丁目へ新築移転しています。この区役所は老朽化にともない、移転先を決めることになり難航しましたが、明治42年(1909)に麻布市兵衛町二丁目62番地の区所有地に木造2階建の庁舎を竣工しました。昭和10年(1935)には、東鳥居坂町3番地の旧麻布尋常小学校敷地に鉄筋コンクリート3階建ての新庁舎が建てられます。港区誕生の際には最初の港区役所本庁舎として使用されました。ちなみに、麻布市兵衛町の木造2階建ての旧庁舎は、日本獣医学校(現在の日本獣医生命科学大学)が購入・移築し、武蔵野市に現存しています。
 赤坂区は、赤坂表町三丁目5番地に設置されました。当初は区長が置かれず、区長事務代理として東京府御用掛浦田長民が任命されました。翌年、旧砂土原藩主島津忠寛の長男忠亮が初代赤坂区長に任じられています。忠亮は、明治2年(1869)にアメリカへ留学し、帰国後に赤坂区長となりました。その後、明治17年(1884)に子爵、明治23年には貴族院議員となり、翌年には父忠寛の功績を受けて伯爵となっています。区役所(図6-7-5)は、明治13年(1880)に表町三丁目10番地の小原久万所有の建物を借りて移転、翌年表町一丁目11番地へ移転しました。その後、明治24年(1891)、市区改正事業の一環で赤坂離宮の飛地が下付され、2階建煉瓦造の庁舎が竣工しました。昭和4年(1929)、皇宮地の下付の記念碑が建てられ、現在も赤坂地区総合支所内にあります。
 昭和49年(1974)1月、安養院境内(旧芝区)、龍澤寺境内(旧麻布区)、赤坂地区総合支所(旧赤坂区)にそれぞれ「近代地方自治の発祥」という説明板が設置されました。
(龍澤 潤)

図6-7-3 旧芝区役所(安養院所蔵)

図6-7-4 現在の安養院

図6-7-5 旧麻布区役所
『麻布区史』(1941年)より転載

図6-7-6 現在の龍澤寺境内

図6-7-7 旧赤坂区役所
『赤坂区史』(昭和16年)より転載

図6-7-8 現在の高橋是清翁記念公園
(旧赤坂区役所跡地)