工部省所管のものとして、港区内にあったものに赤羽製作所がありました。これは、工部省設立の翌年、芝赤羽の元久留米藩邸に開設された製鉄寮を前身とし、諸機械や蒸気機関などを製作しました。明治10年(1877)、赤羽工作分局と改称し、深川・品川工作分局とともに、外国人技師を登用しながら日本の機械工場のさきがけとして、多くの製品を生み出しました。現存のものでは、愛知県犬山市の博物館明治村に展示されている菊花御紋章付平削盤や杉並区堀ノ内の妙法寺鉄門、江東区富岡の弾正橋(現在の八幡橋)があり、いずれも国重要文化財に指定されています。
明治13年(1880)、明治政府は工場払下概則を定め、政府所管の施設や工場を政商などに払い下げる決定をします。これは、明治政府の財政基盤がまだ固まっていない上に、明治10年(1877)の西南戦争で多くの出費を余儀なくされたことによります。これにより、品川分局は旧佐倉藩士西村勝三ら、深川分局は渋沢栄一(しぶさわえいいち)や浅野総一郎らに払い下げられ、赤羽分局は廃止となった後、所有していた設備類が海軍省へ移管されています。
明治政府による富国強兵政策は、旧士族や経済人の出資などによる工場・会社の設立ラッシュを引き起こすことになりました。港区内で特筆すべき会社・工場は、田中機械製作所と瓦斯(がす)製造所です。
田中機械製作所は、「からくり儀右衛門」として名高い田中久重(1799~1881)によって創業された工場です。久留米藩の細工師の家に生まれた久重は、小さい頃から工作の才能を発揮し、嘉永6年(1853)には佐賀藩精錬方に出仕し、佐賀藩や久留米藩の殖産興業に貢献しました。明治6年(1873)、東京へ移住し、明治8年に京橋南金六町に田中製造所を設立します。明治14年(1881)に久重が死去すると、養子となった田中大吉(二代久重)が跡を継ぎ、翌年に芝区金杉新浜町一番地に田中機械製作所が設立されました。海軍の兵器や通信機などを受注し、大きく業績を伸ばしていきました。明治26年(1893)、名称を芝浦製作所と変更します。この芝浦製作所は、昭和14年(1939)「日本のエジソン」と呼ばれた藤岡市助が立ち上げた東京電気株式会社と合併、東京芝浦電気株式会社(現在の株式会社東芝)となりました。
図6-8-2 芝浦製作所『日露戦争記念 日本商工大家集』(大阪新報社、1906年、部分)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
図6-8-3 芝製造所全景と傾斜式炉『創立廿五年記念写真帖』(東京瓦斯株式会社、1910年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
図6-8-4 村田水産翁碑
東京海洋大学品川キャンパス内 写真提供:東京海洋大学
明治7年(1874)、瓦斯製造所が芝金杉橋の旧丹羽(にわ)邸跡に建造されました。これは、フランス人技師アンリ・プレグランの設計により、同年に芝金杉橋から京橋までのガス街灯工事の竣工にともなうもので、街灯に使用するためのガスを製造していました。明治9年(1876)、東京府瓦斯(がす)局が設置されますが、明治18年に渋沢栄一らに払い下げられ、東京瓦斯会社(現在の東京ガス株式会社)となりました。明治35年(1902)の『工場通覧』を見ると、港区域でいうと芝区域に工場が集中しており、とくに機械製造業で16か所を数えることができます(表6-8-1)。
また、港区域内には農林水産業の発展に関する施設もありました。明治2年(1869)に北海道や樺太などの開拓を目的とした開拓使が設立されましたが、明治4年に開拓使官園が青山南町の旧伊予西条藩主松平頼英(よりひで)邸(第一官園)、青山北町の旧山城淀藩主稲葉正邦邸(第二官園)、麻布新笄町旧下総佐倉藩主堀田正倫(まさとも)邸(第三官園)に設けられました。ここで外国から購入した動植物の種を実験的に飼育し、その出来を判断して北海道に送りました。
また、法律家で明治政府の法整備に関わった村田保(むらたたもつ)が、ドイツ留学時にグナイストに水産資源の保護・育成についてアドバイスを受けたことで生まれたのが大日本水産会です。明治15年(1882)、会頭に小松宮彰仁親王を推戴(すいたい)、幹事長には品川弥二郎が就任して会が設立され、村田保は漁業法律学芸委員となりました。この大日本水産会の教育機関が水産伝習所で、明治22年(1889)に農商務省内に設立、ほどなく芝区三田四国町二番地に移転します。その後、明治30年(1897)に水産伝習所は農商務省所管の水産講習所となり、深川区越中島の新校舎へ移りました。その後、伝習所の後身である東京水産大学が、昭和32年(1957)に港南四丁目に移転してきます(現在の東京海洋大学品川キャンパス)。
(龍澤 潤)
表6-8-1 『工場通覧』(明治35年)にみる港区の工場