舎営と軍隊の歓送迎

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 港区には歩兵第一連隊をはじめ4つの歩兵連隊が所在していたため(本章10節を参照)、戦時動員に際して応召した兵士や特設された部隊を兵舎に収容し切れず、寺院や学校をはじめ多数の民間住宅が兵舎代わりに徴発されました。これを舎営といいます。『赤坂区史』には、日清戦争中に赤坂区で軍隊が舎営した回数は6回、延べ人員は5万5,582人だったと記録されています。軍から舎営料金が支払われたとはいえ、強制的に宿舎として徴発されるわけですから兵士たちを受け入れる住民の負担には大きなものがありました。
 区内には華族や富豪の大邸宅が多く、それらは軍の恰好の徴発対象となりました。麻布区飯倉町の旧和歌山藩主で侯爵の徳川頼倫(よりみち)の場合、日露戦争中に邸内に舎営した兵士のために当時の金額で実に5,253円75銭9厘も支出した記録が残っています(東京都公文書館「旧藩主功績調」)。これは第一連隊をはじめ後備四十九連隊、第三大隊本部が同邸に舎営したときの副食物・料理・消耗品・諸雑費等一切の費用で、軍から支給された舎営料を差し引いた実費とあることから、規定の舎営料をはるかに超える費用(現在の金額で数千万円)を自費で負担して兵士たちを歓待優遇したことがうかがえます。
 表6-9-1・表6-9-2は区内に所在する部隊の動員・出動・凱旋の状況をまとめたものです。部隊が出征し、凱旋するたびに兵営と新橋停車場、あるいは品川停車場を結ぶ沿道に多くの群衆が詰めかけ、熱烈な歓送迎をおこなったのも港区の特色といえるでしょう。

表6-9-1 日清戦争における港区所在各部隊出征・凱旋一覧
『都史資料集成』第1巻①489-496頁より作成

表6-9-2 日露戦争における港区所在各部隊出征・凱旋一覧

*は編成担任歩兵第一連隊、**は編成担任歩兵第三連隊。『日露戦役御旗之光・第一師管健児部隊実戦記』や各連隊史より作成