戦死者の葬儀

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 日清・日露の2つの戦争で港区出身の兵士の戦死者数を示す完全な統計はありませんが、わかっているものは麻布区:日清戦争5名・日露戦争47名。赤坂区:日清戦争(不明)・日露戦争70名(慰霊祭の人数から推測)。芝区:日清戦争(不明)・日露戦争260名(本籍者下士兵卒将校200名、寄留下士卒21名、寄留将校27名、軍属12名)。日露戦争が大国ロシアを相手にした厳しい戦争であったことを数字は示しています。とりわけ乃木希典(のぎまれすけ)(1849~1912)将軍率いる第三軍に属して旅順二〇三高地を攻撃した第一師団(東京)の歩兵第一連隊は、ほぼ全滅に等しい損害を受け、わずかに生き残った兵士は第一師団と交代した第七師団(旭川)の指揮下に入って攻撃を続行したのでした。
 区内に本籍があり、歩兵に選抜された成年男子の多くは徴募区の関係により歩兵第一連隊に入隊したことから、二〇三高地で戦死した兵士のなかには区内出身者が多数含まれていました。図6-9-2は、戦地からの遺骨帰還を待って執行された葬儀通知書の一部です。戦争が終わったあとも、しばらくは死者の弔いの行事が続いていたのです。

図6-9-2 芝区兵事義会の戦死者葬儀通知書 明治38年文書類纂・臨時・日露戦役第1巻・第4種(部分)
東京都公文書館所蔵