日比谷焼打事件

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 明治38年(1905)9月5日、日露講和条約の締結に抗議する日比谷公園内の国民大会と京橋新富座の演説会が官憲の弾圧を受けて暴動化し、内務大臣官邸の襲撃を手はじめに、翌6日まで市内いたるところで警察署や交番が襲撃されました(図6-9-3)。日比谷焼打(騒擾(そうじょう))事件です。6日夜戒厳令の一部が東京および近郊に施行されると7日にいたって騒動はようやく鎮静化しました。当時警視庁第一部長として事件鎮圧の指揮をとっていた松井茂の『自伝』によれば、この騒動で焼打ちされた警察署5、同分署7、巡査派出所258(このほかに破壊されたもの5)、キリスト教会13、電車15にのぼり、人的被害としては、警察官の負傷者500、民衆の死者13、負傷者500余(判明分)、軍人若干名に達する未曾有の都市暴動となったのです。

図6-9-3 日比谷焼打事件
『日露戦争写真画報 第34巻(日露戦争実記定期増刊第96編)』(博文館、1905年)
資料提供:国立国会図書館


 高橋雄豺『明治警察史研究』第2巻によれば、最初の焼打ちは内務大臣官邸に近い内幸町と有楽町の派出所から始まり、桜田門、虎ノ門の派出所がこれに次ぎました。その後、騒動の本隊は桜田本郷町から新橋を経て東京市の中心部である京橋、日本橋、神田に進み、市内各方面へ拡散していきましたが、これとは別に芝方面へ向かった集団は、交番や警察署への襲撃を続けながら、芝大門、宇田川町、露月(ろげつ)町、愛宕下町、御成門、芝園橋、金杉橋、赤羽橋、札の辻を過ぎて田町四丁目に及び、その余波は麻布に入って飯倉狸穴(いいくらまみあな)町に至ったといわれています(図6-9-4)。

図6-9-4 焼かれた新橋派出所
『征露戦報第2巻第33号 遺憾千秋講和紀念』(実業之日本社、1905年)
「9月5日東京市民の憤焔に焼かれし」云々という見出しがついている。


 
 赤坂警察署管内には、榎坂町に条約締結の最高責任者である桂太郎首相の別邸があり、さらに伊藤博文枢密院(すうみついん)議長の官舎も管内にあった関係で、これら両邸および米国公使館には十数名から二十余名の警部巡査を配置し、軍隊からも数十名の兵を派遣して警戒にあたっていました。5日午後10時、1,500~1,600名の民衆は虎ノ門方面より襲来し、榎坂方面に来た一隊は東京電車敷設工事現場から空樽十数個を持って来てこれに放火し、気勢をあげながら榎坂町巡査派出所の付近に押し寄せ、大和坂より襲来した一隊と合流して瓦礫(がれき)を乱投しましたが、あらかじめ配置されていた警察官は、極力これを防禦(ぼうぎょ)し遂に一歩も警戒線のなかに侵入させなかったため、民衆は午前零時ようやく退散したといいます。
 この焼打事件による区内の被害状況は以下のとおりです。焼失した交番23(芝19、麻布2、赤坂2)、破壊された交番7(芝6、麻布1)。警察官・消防の負傷者60(芝59、麻布1)、民衆の負傷者13(芝10、赤坂3)。
(白石弘之)