軍事施設が溢(あふ)れる港区

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図6-10-2 「四谷」『一万分一東京図』 明治42年測図 大正10年第二回修正測図 大正14年部分修正(部分)
国土地理院

図6-10-3 「三田」『一万分一東京図』 明治42年測図 大正10年第二回修正測図 大正14年部分修正(部分)
国土地理院


 図6-10-2と図6-10-3は陸地測量部製作の一万分一地形図東京近傍12号「四谷」と13号「三田」のうち麻布・赤坂区の一部です。各種軍事施設がこの地区に集中していることが見てとれます。とりわけ4つの歩兵連隊が存在するこの地域は「兵隊屋敷の町」とも呼ばれました。青山練兵場はすでに代々木に移転し、跡地は明治神宮外苑として整備されつつあることもわかります。
 では、どのくらいの軍人が区内に住んでいたのでしょうか。明治41年(1908)10月1日に実施された東京市市勢調査に、「准所帯」として麻布区(新)龍土町「兵営」1、人員(男のみ)1,759人とあるのは歩兵第三連隊のことです。赤坂区赤坂一ツ木町「兵営」1、人員(同前)1,837人は近衛歩兵第三連隊、赤坂檜町「兵営」1、人員(同前)1,760人は歩兵第一連隊、青山北町四丁目「兵営」1、人員(同前)1,751人は近衛歩兵第四連隊で、合計7,107人の若い兵士たちが日々厳しい訓練に励みながら兵営生活を送っていたことがわかります。
 近衛歩兵第三連隊(図6-10-4)での自身の兵営生活を描いたものに伊波南哲(いばなんてつ)(沖縄県出身、1923年1月入営)の『天皇兵物語』(日本週報社、1959年)があります。この本では、沖縄からはるばる上京し近衛歩兵第三連隊へ入営した著者が、2年間の兵営生活を終えて、めでたく満期除隊するまでの体験が、達者な文章で生き生きと描かれています。きびしい教練や内務班生活、皇居守衛勤務、演習、関東大震災への警備出動等々の体験記録は、今となっては歴史的文献として貴重です。
 さきの市勢調査で兵営内の軍人に兵営外に居住する陸海軍の軍人軍属(家族・使用人を含める)を加えた数は麻布区3,357人、赤坂区7,295人です。これを麻布・赤坂両区のそれぞれの総人口で割って住民1,000人当たりの軍関係者の数を算出すると、麻布区が51.0人、赤坂区は142.1人となります。これに匹敵するのはいずれも軍関係の施設がある麹町区88.2人、四谷区74.6人、牛込区81.3人で小石川区の11人がこれに次ぎます。あとの区はいずれも1人未満であることを考えれば、港区が「軍都」と呼ばれるにふさわしい土地柄であったことがわかります。
 営外居住者のなかに陸海軍将官が多いのも港区の特色です。芝区は107人(家族・使用人を含む。以下同様)、麻布区は117人、赤坂区は130人を数えます。東京市全体885人のうち4割の将官とその家族が港区に居住していたことになります。赤坂新坂町(現在の赤坂八丁目)の乃木希典邸(図6-10-5)は明治天皇に殉死した乃木将軍の遺言で東京市に寄付されて、公開されると忠君愛国の「聖地」となりました。

図6-10-4 近衛歩兵第三連隊の兵営(上)と赤坂一ツ木通り(下)
『新撰東京名所図会 第37編・臨時増刊風俗画報第263号赤坂区之部巻之1』(東陽堂、1904年)
都立中央図書館所蔵

図6-10-5 旧乃木邸
(港区指定有形文化財、乃木公園内)