港区域の被害

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 区内の焼失割合をみると、芝区を除いて被害は比較的軽微であったようにみえます(表6-11-1)。しかし、家屋倒壊や火災で生命を失った者(行方不明者を含む)は芝区で494人、麻布区で185人、赤坂区で142人となり、港区全体では821人に上ったと『大正震災志・上』(内務省)に綴られています。
 芝三田警察署管内では芝浦製作所をはじめ大小の工場が多く、そのいずれも震災のため破壊され、多くの死傷者が出ました。とりわけ三田四国町(現在の芝二~三・五丁目)にあった日本電気では、完成したばかりの第9、第11工場をはじめ第7、第8工場(いずれも鉄筋コンクリート3階建て)が全半壊し、社員105人が圧死する惨事が発生しています。これらの建物は、ウエスタン・エレクトリック社の紹介によりアメリカの貿易会社が建築を請け負ったもので、工事契約の際にその耐震性を第一条件としていたにもかかわらずこのような惨事を招いたのは、地震国日本の条件を十分に考慮に入れなかったアメリカの施工者のミスであったと社史は述べています。
 このほかに、赤羽町(現在の三田一丁目)の煙草専売局赤羽分工場も第一震と同時に建物が崩壊して多数の死傷者を出しています。なかでも悲惨だったのは、倒れてきた大柱に足をはさまれ、出血多量で息も絶え絶えの状態でいたひとりの女子工員です。大柱を除くとこれによってわずかに支えられていた煉瓦(れんが)の巨塊が崩れ、その下にうめき苦しんでいる多数の工員たちが死んでしまうおそれがあるため、やむをえず、彼女の右膝関節部を切断してやっとのことで救出したのでした。この地震が区内でも並々ならぬ激しいものであったことを示しています。
 

表6-11-1 東京市の各区別焼失面積
『みる・よむ・あるく東京の歴史』3(吉川弘文館、2017年)より転載