救援・救護の拠点

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 震災直後から区内はもちろんのこと、他区からも火に追われた罹災民が大挙して押し寄せ、1日の夜には、芝山内に密集する避難者は20万人に達したといわれます。区役所や警察署が斡旋して寺院、教会、学校、華族・富豪の大きな邸宅や兵舎などを開放して罹災民を収容し、食糧・飲料水・医薬品などの提供と救護にあたりました(図6-11-4)。芝尋常小学校に開設された避難者収容所では9月2日午前10時の開所から閉鎖までの38日間に延べ2万2,900人の救護をおこなっています。
 また、芝離宮内をはじめ芝公園内三角広場、芝中学校、増上寺境内、芝公園東照宮、芝新公園、麻布今井町三井邸などに共同バラック(仮設住宅)が建設され罹災者を収容しました(図6-11-5・図6-11-6)。

図6-11-4 芝増上寺境内の炊き出し

『大正震災志写真帖』(内務省社会局、1926年)国立国会図書館デジタルコレクションより転載

図6-11-5 芝離宮内バラック配置図
東京都公文書館所蔵『都史資料集成』6別冊附録(東京都公文書館、2005年)

図6-11-6 芝離宮内バラック
東京市編『東京震災録 地図及写真帖』(東京市役所、1926年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載


 大正12年(1923)10月18~19日に実施された東京市の調査によれば、増上寺では、大殿(本堂)前に三井家によって建設されたバラック7棟に81世帯を収容するほか、大方丈に80世帯、柳の間、梅の間に各1世帯、供養殿に4世帯、開山堂に5世帯を雑居させ、その他境内の清水組工作場跡に22世帯を収容するなど201世帯の罹災(りさい)者が避難生活を送っていました。着の身着のままで焼け出された罹災者の需要にこたえるために、玄関広間には松阪屋呉服店の出張所が店を開き、山門の外には呉服屋、足袋シャツ類、野菜類、雑貨荒物、菓子類、下駄屋、今川焼、酒屋、煙草屋、おでん屋、芋屋、ゆであずき、飯屋、理髪店など26の露店が営業をしていたといいます。また境内山門脇には焼失した愛宕警察署の仮事務所もおかれて、この地域一帯の救援・警備活動の拠点となっていました。
 東海道線が不通となり、関西方面へ避難する人たちのために船による無賃輸送が開始されると芝浦埋立地がその発着拠点となりました(図6-11-7)。同地はまた、海上から東京へ輸送されてくる救援物資の一大集積所となりました(図6-11-8)。港湾施設も未整備の埋立地が、ヒトとモノの流れの結節点となったわけです。これをきっかけに東京港築港計画が真剣に検討されるようになりました。
 なお、被災地では9月2日夕方頃から焼け残った地域を中心に朝鮮人来襲の流言蜚語(りゅうげんひご)(デマ情報)が盛んに飛び交い、情報が途絶したなかで恐怖にかられた住民たちは自警団を組織して警戒警備に当たりましたが、その行き過ぎた行動が問題となりました。10月20日現在の区内の自警団数を警察署管内別にみると愛宕10、三田43、高輪58、鳥居坂39、六本木38、表町37、青山28と253にも及んでいます(図6-11-9)。(白石弘之)

図6-11-7 芝浦埋立地から船に乗って関西方面に避難する人たち
岡田紅陽『関東大震大火記念写真帖』(東京図案印刷、1923年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

図6-11-8 救援物資の一大集積所・芝浦埋立地
岡田紅陽『関東大震大火記念写真帖』(東京図案印刷、1923年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

図6-11-9 麻布方面の自警団
『大正震災志写真帖』(内務省社会局、1926年)国立国会図書館デジタルコレクションより転載