東京築港

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 大正12年(1923)9月1日、関東地方を襲った関東大震災は、東京市内に大きな被害をもたらしました。あまりの被害の大きさのため、首都機能の移転まで考えられましたが、政府主導のもとで帝都東京の復興事業が進められます。9月27日には帝都復興院が、翌年2月25日には内務省の外局として復興局が設置され、東京や横浜の復興に携わりました。
 東京における震災復興事業としてよく知られているのが隅田川の橋梁(きょうりょう)と東京築港です。とくに港区域においては、東京築港は非常に大きな出来事でした。東京築港は、明治10年代から課題とされてきました。明治13年(1880)、東京府知事松田道之(まつだみちゆき)によって品海築港が提唱されますが、これは首都東京にふさわしい港湾を整備することを目論んだものです。同年に天保期に学者佐藤信淵(さとうのぶひろ)がまとめたとされる「内洋経緯記」が、内務省勤務の織田完之(かんし)によって翻刻されています。この刊行も品海、すなわち東京築港の世論を高めるためのものと考えられます。しかし、築港にあたっては隅田川の河口改良などの工事もあわせておこなう必要があったため、明治16年(1883)、隅田川口や澪筋(みおすじ)の浚渫(しゅんせつ)工事がおこなわれ、その浚渫土を用いて、月島埋立て工事が進められました。ところが、反対意見や経費の問題でやむなく東京築港は頓挫します。その後、明治39年(1906)からは、隅田川口改良工事が進められ、芝浦や現在の江東区域の埋立地が次々と誕生しています。
 そして関東大震災で東京への救援物資を輸送する際、大型船の係留や荷物の保管設備の設置などが問題となったことから、再び東京築港が具体的なものとなっていくのです。横浜からの反発もありましたが、大正14年(1925)に日の出桟橋が完成し、3,000t級の船舶繋留が可能となり、昭和7年(1932)には芝浦岸壁、昭和9年には竹芝桟橋が相次いで完成、そして昭和16年5月20日に東京港が誕生しました(図6-12-2)。
 また、芝浦の埋立地には、関東大震災以前から工場が集積されていましたが、この流れは震災以降加速されました。三田四国町に本社工場を持っていた日本電気は、大正13年(1924)12月、同15年5月と相次いで芝浦二丁目に工場を設置しました。また、田町にあった沖電気も昭和2年(1927)に月見町二丁目に工場を新設します。

図6-12-2 巨船が横着けになる芝浦港『大東京写真帖』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載

図6-12-3 隅田川を飾る新二橋『大東京写真帖』
国立国会図書館デジタルコレクションより転載