例えば、愛宕隧道(ずいどう)は、愛宕山に掘られたトンネルで昭和5年(1930)に竣工しました(図6-12-4)。このトンネルによって、麻布方面から芝区海岸方面の通行が容易になりました。また、道路の舗装工事も進められ、アスファルト舗装が普及していきました。一方、虎ノ門や新橋にかけては鉄筋コンクリートのビルが建ち並ぶようになり、昭和12年(1937)には芝区田村町に地下1階、地上8階建ての日産館が完成しています。大企業以外の会社の本店も集まり、オフィス街の様相がつくり上げられていきました(図6-12-6)。
また、新橋駅の周辺は銀座に近接していることもあり、喫茶店や小料理屋、カフェやバーなどといった飲食店が増えていきました。これらのお店は、いわゆる震災前から銀座あたりへ繰り出す「銀ブラ」ついでの人びとや周辺のサラリーマンの集まる場として賑わっていきます。また、新橋や赤坂、芝浦の花柳界も震災の被害を乗り越え、発展していきました。昭和11年(1936)に建てられた芝浦花柳界の見番は現存しており、アジア・太平洋戦争後に港湾労働者のための宿泊所、協働会館として使用され、平成21年(2009)に区指定文化財となり、令和2年(2020)からは港区立伝統文化交流館として活用されています。
このように関東大震災の被害は甚大なものでありましたが、復興局を中心として復興事業をすすめた結果、昭和5年(1930)に復興事業が完了し、3月26日には帝都復興祭がおこなわれました(図6-12-7)。そして、復興局も4月1日に廃止され、その後継の復興事務局が残務作業を請け負いました。
(龍澤 潤)
図6-12-4 愛宕トンネル 杉山鏡介「愛宕隧道開鑿工事に就て」
『土木建築工事画報』6-9(1930年)写真提供:土木学会附属土木図書館
図6-12-5 愛宕山放送所全景(設立当時)
『新修港区史』(1979年)より転載
愛宕山には明治22年(1889)に「愛宕館」と「愛宕塔」が建てられた。「愛宕館」はレストラン兼宿泊施設で、「愛宕塔」は店舗だった。いずれも関東大震災で倒壊し、その跡地に「東京放送局」が建てられた。
図6-12-6 新橋交差点
『芝区誌』(1938年)より転載
図6-12-7 「帝都復興完成式式場」(昭和5年3月26日)
『帝都復興区劃整理誌 第1編 帝都復興事業概観』(東京市役所、1932年)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載