二・二六事件に出動

211 ~ 212 / 278ページ
 東京市連合防護団は、昭和8年(1933)関東防空演習を手始めに毎年の防空演習に参加して訓練を重ねてきましたが、「東京非常変災要務規約」による初出動が「空襲」ではなく「二・二六事件」(図6-13-3、図6-13-4)であったのは皮肉なことでした。事件発生から3日目の28日午前、占拠部隊を武力鎮圧する決意をした戒厳司令部から東京市連合防護団長に対し、防護団のうち警護班および交通整理班を出動させ、憲兵・警察官憲を補助するよう要請がありました。牛塚虎太郎(うしづかとらたろう)連合防護団長(東京市長)は芝公園にあった東京市教育局に本部を置き、ただちに東京市35区の防護団員の出動を命じましたが、戒厳部隊の攻撃準備が整わないため同日夕方には一部を除き団員の自宅待機を命じています。

図6-13-3 事件の発生を知らせる号外
読売新聞1936年2月26日

図6-13-4 高橋是清翁記念公園(上)と高橋是清翁像(下)

二・二六事件の現場となった高橋是清邸は遺族によって土地建物ともに東京市に寄付され公園となった。母屋は多磨霊園の休憩所として移築されたが、現在は小金井市の江戸東京たてもの園に復元され移築されている。(港区立港郷土資料館編『高橋是清』港区人物誌3、港区教育委員会、2007)


 翌29日未明、事態の切迫により牛塚団長は皇居隣接8区(麹町・神田・日本橋・京橋・芝・麻布・赤坂・四谷)の防護団員7,500名余を再出動させ、次いで同日早朝、戒厳司令部の命により午前5時半よりおおむね2時間以内に戦闘地域の住民の避難を完了するよう麹町・赤坂・芝の各防護団に指令しました。その結果、麹町区は午前7時、赤坂区は同8時10分、芝区は同9時過ぎ混乱もなく避難誘導を完了しています(図6-13-5)。
 赤坂区では表町一・二丁目、伝馬町一・二丁目、田町一~七丁目、福吉町、溜池町、新町一~五丁目の住民1万2,800人余が青山小学校、氷川小学校、中之町小学校、赤坂市民館、青山会館に、芝区では琴平(ことひら)町、今入(いまいり)町、明舟(あけふね)町(一部)、桜川(さくらがわ)町(一部)の住民3,600人余が南桜小学校と愛宕高等小学校に避難しました。麹町区の700人余も氷川小学校に避難しています。

図6-13-5 戦闘区域付近住民への注意事項
読売新聞、1936年2月29日号外