昭和16年(1941)3月に内務省の外廓団体大日本防空協会が発行した『焼夷弾』というパンフレットがあります(図6-14-2)。「数十機編隊の敵機が都市の広域にわたる焼夷弾攻撃を企図した場合、正面約200m、縦深約1,000m、約20万m2の被弾地域をおよそ100か所に作る攻撃法を採って5㎏級の焼夷弾をばらまいたとすれば、約30m平方に1発、おおむね3軒に1発の割合で投下されることになる。空襲にあたっては少なくとも3軒に1発の焼夷弾を投下され、14、5軒からなる隣保班には4、5発は投下されるものと覚悟しなければならない。敵機が来襲したら、各家庭ではそれぞれ防空壕に待避するが、焼夷弾攻撃を受けたら、各戸の防空従事者は全員残らずただちに防空壕から勇敢に飛び出して、数軒で必ず一発の焼夷弾を消火することのできる技量と自信を持つにいたるまで徹底した訓練を行わなければいけない」と強調しています。
その4年後、長距離戦略爆撃機B29による想像を絶する規模の焼夷弾攻撃がはじまると、バケツと火叩きという貧弱な装備で「自分の家は自分で守り、他へ延焼させない」という初期防火の鉄則はもろくも崩壊したのでした。
図6-14-2 『焼夷弾』
(財団法人大日本防空協会、1941年) 『都史資料集成』12(東京都公文書館、2012年)所収
東京都公文書館所蔵