港区への度重なる空襲

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 港区域に対する空襲は、昭和19年(1944)11月24日の東京湾第5・第6台場を皮切りに、翌年8月13日の芝白金三光町(現在の白金一~六丁目、白金台四~五丁目)の空襲まで大小あわせて19回おこなわれました(『平和の願いをこめて2016』第3集)。このうち次の3回は区域内に甚大な被害をもたらしました。
 昭和20年(1945)3月10日、298機のB29による江東地区を中心とした無差別爆撃により1,783トンの焼夷弾が投下され、死者8万3,793人、罹災者100万8,005人(警視庁調査)を出す大惨事となり、区域内では芝区をはじめ麻布区や赤坂区にかけて大きな被害を出しました。次いで山の手地域を目標とした5月24日(B29・525機、投下焼夷弾3,645.7トン)と同25・26日(B29・470機、投下焼夷弾3,262トン)の空襲で麻布・赤坂両区の大部分と芝区の広範な部分が焼失しました(図6-14-4・図6-14-5)。区域内の戦災被害は、最終的には表6-14-1のとおりです。

図6-14-4 1945年5月24日の空襲で瓦礫と化した一之橋周辺(部分)
『目で見る港区の100年』(郷土出版社、2013年)

表6-14-1 港区域の戦災被害
『平和の願いをこめて2016』(港区総務部)第1部「港区と戦争」表2より転載、一部加工

図6-14-5 赤坂区役所付近の焼け跡
撮影:石川光陽