5月25日の大空襲

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 天皇の側近だった内大臣木戸幸一(1889~1977)の屋敷は赤坂新坂町62番地(現在の赤坂八丁目)にありましたが、昭和20年(1945)4月13・14日の空襲で百数発の焼夷弾を受け焼失しました。木戸は日記に「午前一時頃、赤坂宅は焼夷弾百数発の攻撃を受け、焼失す。鶴子は防空壕にありしが、同壕内にも四五発突入忽(たちま)ち火を発せしを以て、火中を身を以て逃れ第一師団司令部に避難す。/三時過、警戒解除の後、帰宅す。未だ余燼盛(よじんさかん)に燃へつつあり。/五十数年の住居、吾等兄弟、又、孝澄、由喜子等子供達の育ちし家なれば懐しき数々の思出あり。今は皆灰となる。感慨無き能(あた)はず。愛惜の情あるは免れざるところ、而(し)かも亦(また)一面、何となくさっぱりとしたる心持となりたるは不思議なり」と綴っています。
 この日の空襲は、B29・330機による夜間無差別爆撃で城北地区の豊島・滝野川・板橋・足立・荒川各区に大きな被害をもたらしました。現場を視察した警視庁消防部は、隣組防空群の初期防火活動が3月10日の大空襲以後ほとんど機能しなくなっており、大部分の市民は焼夷弾の密集投下による初期防火は不可能なりという観念と火災に対する甚大な恐怖心から逃避的態度に終始していると報告しています。
 そして5月25日、房総半島ならびに駿河湾から侵入したB29・470機は午後10時30分から2時間半にわたって都心部をはじめ広範囲の市街地へ爆弾および油脂、エレクトロン、黄燐(おうりん)など各種の焼夷弾をきわめて濃密に混投する絨毯(じゅうたん)爆撃をおこないました。隣組防空群は最近における徹底かつ大規模な空襲にその戦意をほとんど喪失しており、そのため初期防火がまったくおこなわれず、火災は全被弾地域におよび、おりからの強風にあおられ一大火流を現出し帝都の大部分を焼失するにいたったと「警視庁消防部空襲災害状況」は述べています。
 ふたたび木戸幸一の日記。「午後十時空襲警報、直に御文庫に出仕す。折柄の烈風にて意外の大災害となり、山の手方面一円殆ど全滅す。宮城を始め大宮御所、東宮(とうぐう)仮御所、青山御殿、秩父宮(ちちぶのみや)邸、三笠宮(みかさのみや)邸、梨本宮(なしもとのみや)邸、閑院宮(かんいんのみや)邸、東伏見宮(ひがしふしみのみや)邸、李鍵(イコン)公、李〓(イウ)公邸等、皆焼失す。其他名士邸の焼失無数にして、侍従長、武官長、広幡大夫、八田侍医頭邸等皆罹災す」。この日、皇居はもちろん赤坂の大宮御所をはじめ山の手地区にあった各皇族や名士の邸宅も軒並み焼失したのでした。