新橋駅前、終戦の翌々日あたりにはもう二、三人の露天商が、広場で品物を並べていたと言われる。その新橋駅前の疎開あとの広場に、いつしか市場らしい形態がととのいはじめたのは、終戦後一カ月あまりたったころで、空腹を抱えた日本人たちは、新橋へ、新橋へとゾロゾロ集まってきた。
作家の高見順(1907~1965)は日記で、この闇市の形成過程について次のように考察しています。高見は「駅を出ると(中略)背後の広場が『闇市場』になっている」「店の感じではない。浅草の食い物屋は、ちゃんと屋台を出しているが、ここはただ風呂敷、カバンなどを広げて売っているだけである」「『《闇市場》がなぜ自ずと形成されて行ったか』というと、駅前に外食券食堂が二軒あり、そこに行列ができ、並ぶ人相手に闇屋が集まってきて、いつのまにか市場になっていった」と記述しています。
新橋の駅前は戦争中に空襲対策のために強制疎開がなされて空地となっており、そこに松田義一という親分のもと松田組と呼ばれるテキヤの集団が闇市を組織していました。戦後、多数の子分を抱えていた松田は混乱していた闇市の自治・統制に乗り出し、東京都・警察もその力量を認めて、新橋駅東口から空地の広がっていた西口への移転を依頼するなど両者は協力関係にありました。図7-2-3は図7-2-2の中央右手付近を撮影した写真で、写真中の看板には「消費者ノ最モ買イ良イ民主的自由市場 御気付ノ點ハ投書箱ヘ何事御教示下サイ 関東松田組」と書いてあります。松田組が自らを「民主的自由市場」と名乗っていることが注目されます。闇市で売買される物資は、新橋駅に着く1番列車や2番列車で各地からもたらされ、早朝の新橋駅前は多くの担ぎ屋で賑わったといいます。
図7-2-3 新橋駅西口の闇市の看板
近現代フォトライブラリー(文殊社)