闇市のマーケット化と闇市の終焉

226 ~ 227 / 278ページ
 昭和21年(1946)春頃から闇市が徐々に取り締まられるようになると、露店のままではいけないと松田が中心になり、新生マーケットという長屋型の共同店舗の建設を開始します。同年6月12日の朝日新聞は同マーケットについて、5月中旬から工事が進められ、建坪1,998坪の総2階建てで288の店舗があり、電化されてネオンの大広告塔を備えた「復興帝都随一」の明るい商店街として、8月初旬に開店予定と紹介しています。ただ露店がマーケットに変容する際、そこにはそれまでの営業者の2、3割しか入れず、それ以外は脱落していったと述べる記録もあります。
 隆盛を見た闇市でしたが、徐々に流通が復旧し、取締りも正常化していくと、厳しい立場に立たされていきます。昭和21年春頃から流通・露店営業の取締りが強化され、昭和22年10月には東京中の露店商たちにより組織され、闇市を仕切っていた東京露店商同業組合も解散していきます。昭和23年(1948)にはGHQの指示により露店整理事業がおこなわれ、戦災復興土地区画整理事業などによっても闇市は物理的に消滅していくのです。その過程では非合法の飲み屋が増えたり、保険金目当てともされる火事が頻発するなどし、闇市の時代は終焉を迎えていきました。
 ただ、新橋では闇市以来の飲み屋街の建物は高度経済成長期まで存続し、それが昭和46年(19 71)に現在のニュー新橋ビルに建て替えられました(図7-2-4)。再開発される直前の同所の図面を見ると(図7-2-5)、狭い木造のバラックの建物が建ち並んでいることがわかります。建て替えに際しては、営業者の一部は新ビルに移転入居し、とくにビルの地下には飲み屋街が作られ、現在まで存続しています。新橋駅周辺が現在のようにサラリーマンで賑わう街になっていった背景には、闇市やその後も存続した飲み屋街があり、その雰囲気は現在でも駅前に引き継がれているのです。
(初田香成)

図7-2-4 ニュー新橋ビル(新橋二丁目)

図7-2-5 1961年当時の新橋西口の建物位置図

『新橋西口市街地改造事業 資料集』(東京都市街地再開発事務所、1962年)東京都公文書館所蔵