この案によれば、世田谷や江戸川などの11区は従来通り存続させ、残りの24区を11区に統合していくというものでした。芝区と麻布区、赤坂区の3区は統合の上、新しい1区として設定されることになりましたが、この東京都案に対して、3区はいずれも反対しました。
芝区では、昭和22年(1947)1月8日、芝区会において、単独で区を構成したいということを決定し、意見書を東京都に提出します。その意見書によれば、芝区は単独でも東京都が新区に求める人口・面積などの基準に達していることを理由としています。一方、麻布区でも同日、麻布区会において3区合併については反対し、その代わりに赤坂区との統合を求める意見書を提出しています。麻布区として、都案に賛成する場合には、①区長室は3区の中央にある麻布区に設置すること、②新区名は3区の協議において決定すること、③芝・麻布・赤坂の3支所を結ぶために連絡バスを開設すること、などの条件を掲げています。そして、赤坂区でも同日、区議会において、3区合併は「都市計画ノ理想ヲ遠ザカルコト甚シク」、関係各区の実情を無視しているという理由で反対します。区議の意見では、麻布区との2区合併であれば受け入れるという方向は打ち出していたようです。
東京都は、この意見書を受けて、もう一度3区合併について再議するように各区に指示します。その結果、芝区はこれを受け入れたものの、麻布・赤坂両区は合併受け入れについては時間がかかりました。この22区統合については、日本橋区や小石川区などでも3区同様に反対の意思を示しています。2月25日、安井東京都長官は、植原悦二郎内務大臣と3区の区長・区議会議長を交えた会議を設け、区役所本庁舎を3区の中心となる麻布区役所に置くことを条件に3区合併を提示し、3区ともそれを受け入れることとなります。
表7-3-1 1947(昭和22)2月12日付東京新聞による新区の名称候補
『東京百年史』6(1972年)より作成
図7-3-2 旧麻布支所
図7-3-3 旧赤坂支所(昭和41年)