3区の合併

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 昭和20年(1945)、アジア・太平洋戦争が終わり、甚大な被害を受けた日本は復興にむけて動き出すこととなります。東京都の35区は、3月10日の東京大空襲や5月25日の山の手大空襲などで多くの人的・物的被害があったため、どのように再建していくかを計画的に考えていく必要に迫られたのです。昭和21年(1946)7月29日、東京都長官安井誠一郎を中心に、関係省庁の官僚や都・区議会議員、学識者などで東京都区域整理委員会が設置されました。この委員会では、これまで35あった区を人口20万人前後、面積10km2を基準として、22区に統合する案がまとめられました。
 この案によれば、世田谷や江戸川などの11区は従来通り存続させ、残りの24区を11区に統合していくというものでした。芝区と麻布区、赤坂区の3区は統合の上、新しい1区として設定されることになりましたが、この東京都案に対して、3区はいずれも反対しました。
 芝区では、昭和22年(1947)1月8日、芝区会において、単独で区を構成したいということを決定し、意見書を東京都に提出します。その意見書によれば、芝区は単独でも東京都が新区に求める人口・面積などの基準に達していることを理由としています。一方、麻布区でも同日、麻布区会において3区合併については反対し、その代わりに赤坂区との統合を求める意見書を提出しています。麻布区として、都案に賛成する場合には、①区長室は3区の中央にある麻布区に設置すること、②新区名は3区の協議において決定すること、③芝・麻布・赤坂の3支所を結ぶために連絡バスを開設すること、などの条件を掲げています。そして、赤坂区でも同日、区議会において、3区合併は「都市計画ノ理想ヲ遠ザカルコト甚シク」、関係各区の実情を無視しているという理由で反対します。区議の意見では、麻布区との2区合併であれば受け入れるという方向は打ち出していたようです。
 東京都は、この意見書を受けて、もう一度3区合併について再議するように各区に指示します。その結果、芝区はこれを受け入れたものの、麻布・赤坂両区は合併受け入れについては時間がかかりました。この22区統合については、日本橋区や小石川区などでも3区同様に反対の意思を示しています。2月25日、安井東京都長官は、植原悦二郎内務大臣と3区の区長・区議会議長を交えた会議を設け、区役所本庁舎を3区の中心となる麻布区役所に置くことを条件に3区合併を提示し、3区ともそれを受け入れることとなります。

表7-3-1 1947(昭和22)2月12日付東京新聞による新区の名称候補
『東京百年史』6(1972年)より作成

図7-3-2 旧麻布支所

図7-3-3 旧赤坂支所(昭和41年)