新区の名称

230 ~ 231 / 278ページ
 22区に統合されることを受け、新たに設けられる11区では新区の名称を決めることになります。昭和22年(1947)1月4日付の朝日新聞では、「「大江戸区」はいかが、うわさにのぼる新区名」、毎日新聞では「“城”の字は追放 新区名都民のおちえ拝借」という見出しで取り上げています。また、2月22日付の東京新聞では、新区名投票という企画で名称の人気投票を行い、24万2,728票もの投票があり、関心の高さを窺わせます。
 芝・麻布・赤坂の3区については、愛宕・青山・青葉・飯倉・三田といった名前が挙がっており、『新修港区史』(1979)には前述の5つのほか、芝・高輪・三縁・麻布・三春・三園・赤坂・御所の候補が見られます。いずれも3区の地名に由来していることから、3区による協議の結果、「城東区」と「東港区」が候補としてあげられました。そして「東港区」が選ばれますが、東京都東港区では音が重なってしまうということで「港区」となりました。
 このような過程を経て、3月10日、東京都告諭第一号により35区が22区に改められ、芝・麻布・赤坂の3区が統合され港区となりました。旧麻布区役所内に総務・企画二課を統括する区長室を設置、港区役所本庁舎となりました。区長は公選区長が発足される時まで空席とし、港区副区長であった中西清太郎が区長心得となって職務を代行しました。しかし、11月に交通の利便性などから芝支所(旧芝区役所)へ移転することが区議会で討議され、可決となったため、翌12月に芝支所へ移転し、区役所本庁舎となりました。昭和58年(1983)に建て替えのため仮庁舎へ移転し、同じ場所に新庁舎を建設、昭和62年3月2日に開庁しました。
(龍澤 潤)

図7-3-4 新生港区の区議会議員と理事者
『新修港区史』(1979年)より転載

図7-3-5 港区紋章と紋章製図法(昭和24年[1949]制定、昭和24年7月30日港区告示第百一号)