自主的なまちづくりとしての六本木の戦災復興土地区画整理事業

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 「奏でる乙女像」を設置した麻布第一復興土地区画整理組合は、昭和22年(1947)6月9日に設立が認可されました。同組合の区域は麻布六本木町、三河台町の4万5,350坪で、現在の六本木交差点を中心とし、北側の東京ミッドタウンの手前までの場所が該当します。図7-4-2は昭和22年当時の整理前の地区の様子を示しています。木造の簡素な住宅が立ち並んでいる様子がわかります。組合施行の区画整理事業は活動に熱心な住民が多い地区でおこなわれ、六本木地区はこの組合施行区画整理の都内で第一号の組合として注目を浴びたと言います。

図7-4-2 土地区画整理前の六本木
資料提供:国立国会図書館
昭和22年(1947) 柴田清太郎『六本木』(麻布第一復興土地区劃整理組合、1954年)


 同組合が残した記念誌『六本木』によると、組合長の子安英男は「我々の町の復興再建はお役所任せでなく、民主的な運営を以て此の困難なる大事業を始める」必要があるとして、「町の有志と協議して賛成を得ると直ちに、町の青年のなかで戦時中青年団の幹部で実行力のある者を選び、土地所有者を訪問させて組合設立の準備にかかった」「文化住宅街、病院街、高級商店街等の山の手に於ける近代的都市のモデルケースを実現させる夢を抱いた」と言います。設計にあたっては、東京都の道路計画にしたがって50mと25mの道路を設け、区域内の5つの寺院の墓地を集めて集合墓地とするなどの工夫がなされました。
 昭和23年(1948)4月には換地予定地の指定がおこなわれ建物の移転が始まりましたが、「減歩」と言って自らの土地を一部拠出しなければいけない土地所有者や、土地所有者ほど権利関係が保障されていない居住者である借地人や借家人により反対運動がおこなわれるなど、事業は困難を極めました。結局、ドッジ・ラインにより戦災復興計画全体が縮小されると、土地拠出の最大要因であった放射第22号(六本木通り)の計画が50mから40mに縮小されて平均減歩が2割程度に減少したため、関係者の了承を得られたと言います。最終的には193棟の建物が移転し、昭和30年(1955)9月に組合は解散しました。図7-4-3は整理後の地区の写真です。建物こそ低層のものが多いですが、現在と同じ土地区画がこの時に生まれたことがわかります。他の戦災復興土地区画整理事業では昭和50年代までかかった地区もあり、港区は比較的早く完了しました。

図7-4-3 整理後の六本木
白線内は組合地区(柴田清太郎『六本木』 麻布第一復興土地区劃整理組合、1954年)
資料提供:国立国会図書館