東京タワーの建設地には当初、上野恩賜公園なども候補地になりましたが、地盤の状況や、交通の便のよい都心でしかも広い面積が得られる場所ということで、現在の芝公園内に落ち着きました。図7-5-3は東京タワーが建設される前の敷地の様子です。当時はビルの高さは最高で31mに制限されていたため、東京タワーはひときわ目立つ存在でした。東京タワーは自立式の鉄塔として当時世界最高の333mを誇り、国産の材料と技術で建てられたとして、日本の戦後復興のシンボルとなっていきます。
この時期の港区の復興を象徴するのは東京タワーだけではありません。アジア・太平洋戦争以来落ち込んでいた景気は、昭和25年(1950)に朝鮮戦争が始まるとその特需により民間の経済活動が活発化し、昭和29年からは高度経済成長と呼ばれる好景気に沸きました。東京には会社の活動の中心となる本社や支店が入るオフィスビルが多数建設され、ビル・ブームやビル・ラッシュなどと呼ばれました。ビル建設の動きは古くからの都心だった千代田区や中央区から、徐々に隣接する港区にまで波及しました。表7-5-1は建築許可の統計をもとに、港区内で戦後に建てられた200坪以上の建築物の件数を示したものです。1950年代から大規模な建築物が多く建てられ、なかでも事務所用の建築物が多く、1棟当たりの面積も大きい様子がわかります。こうして港区は、千代田区や中央区と並んでオフィスビルなど管理中枢機能の集中する「都心三区」となっていきます。
このビル・ブームの代表的な場所として、新橋駅日比谷口から外堀通り(都道405号)を西新橋-虎ノ門-溜池の交差点という順に歩いてみましょう。まず目に入るのは新橋駅から近い場所に立っている堀商店ビルです(図7-5-4)。堀商店ビルは関東大震災後の昭和7年(1932)に建設された登録有形文化財のビルです。4階建てに塔屋がつき、外壁には重厚なスクラッチタイルが張られ、優雅なレリーフが彫りこまれています。この場所は戦前には商業と住宅が混在する地区で、堀商店のように耐火構造のビルも建っていましたが、木造2階建ての住宅兼商店が多く建っていました。
一方、1950年代頃から千代田区に隣接するこの通りを中心に、さらに南へ向けて多数のビルが建てられました。この通り沿いには8 、9階建て程度のビルが多く建っています(図7-5-5)。重厚な装飾を備えていた堀商店ビルに対し、この時期のビルには、①採光のために大きなガラス窓を持つ、②土地を最大限に利用するため1階から最上階まで同じ広さで直方体の形をしているなどの特徴がありました。日本ではかつて絶対高さ制限が存在し、31m以下の建築物しか建てられませんでした。現在では建築基準が変更されたため、当時のものより高いビルも混じっていますが、今でも高さ31m以下にそろえられたかつてのスカイラインをうかがうことができます。とくに溜池交差点に行く途中にある日本財団ビル(旧NCRビル、昭和37年[1962]建設)は建築家吉村順三の代表作としても知られ(図7-5-6)、近年リニューアルされて端正な姿を示しています。
1960年代に絶対高さ制限が撤廃されると、超高層ビルが建設されていきます。外堀通り沿いにある霞が関ビルディング(昭和43年(1968)建設)はその嚆矢(こうし)で、日本初の超高層ビルでした(図7-5-7)。現在の港区には超高層のタワービルが建ち並んでいますが、外堀通り沿いには関東大震災後のビルから、31mの絶対高さ制限時代のビル、昭和43年(1968)に建設された日本初の超高層ビルである霞が関ビルディングなど、さまざまな時代の特徴を持つビルが並んでいるのです。
東京タワーは建設当初、パリのエッフェル塔の模倣と見なされることもありました。しかし、今では戦後復興のシンボルとして、東京が生んだ独自のランドマークと見なされています。一方、1950年代に建てられたビルも依然として存続しているものがあります。これらは現在の港区の主要な通りのスカイラインを形作っており、現在のオフィスビルが建ち並ぶビジネス街としての港区の端緒が見出せます。
(初田香成)
図7-5-3 タワー建設前の敷地
『東京タワー10年のあゆみ』(日本電波塔株式会社[現在の株式会社TOKYO TOWER]、1968年)
表7-5-1港区内戦後主要建築物(床面積200坪以上)出願数(都建築局指導部)
『港区史』(下、1960年)をもとに作表
図7-5-4 堀ビル(新橋二丁目)
図7-5-5 外堀通り沿いの8、9階建てのビルのスカイライン
図7-5-6 日本財団ビル 旧NCRビル(赤坂一丁目)
図7-5-7 霞が関ビルディング
石田頼房『日本近現代都市計画の展開 1868-2003[pdf版]』(自治体研究社、2016年)