オリンピックと都市整備

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 東京オリンピックは昭和39年(1964)10月10日から24日まで開催されました。日本経済は昭和30年(1955)から工業製品の輸出を中心とした高度経済成長を続けており、オリンピックの開催は日本の復興を世界に示すものとなりました。
 高度経済成長による復興の一方で、東京には大量の人口が流入し、そのひずみも拡大していました。環境汚染などの問題が発生するとともに、道路網などの交通基盤が整備されないままモータリゼーション(自動車所有人口の増加)が進展した結果、増加する自動車交通による交通事故や騒音の急増や、慢性的な渋滞が発生しました。東京オリンピックは単にスポーツの祭典というだけでなく、必要な施設や道路を整備することを通じて当時の都市が直面していた問題を解決する機会でもあったのです。
 東京オリンピックの開催は港区にも大きな影響を及ぼしました。港区では秩父宮ラグビー場でサッカー競技がおこなわれました。またオリンピックに合わせて、区内には東海道新幹線や浜松町駅と羽田空港を結ぶ東京モノレールが開通しました。さらにオリンピックの会場を結ぶ重要路線として、港区内には首都高速道路や、都心の国立競技場と第2会場である都立駒沢公園を結ぶ青山通り(国道246号、放射第4号線)などが整備されました。首都高速道路は都心部と副都心である新宿や渋谷とを結び、青山通りは都心部と渋谷区など都内南西部、神奈川県とを結び、混雑打開のための重要路線でもありました(図7-6-2)。
 首都高速道路のうち首都高速都心環状線や首都高速1号羽田線、同2号目黒線、同3号渋谷線、同4号新宿線などはいずれも港区内を走り、区内を走る高速道路の総延長は約15kmと、23区中第1位の長さとなっています(昭和51年[1976]当時)。その多くは用地取得の手間を省くため、既存の道路や公園、河川など、公共空間の上空を利用して立体的に建設されました。
 以下では青山通りの街並みの変化を見てみましょう。図7-6-3は同じ青山通り沿いの南青山3、5丁目区間における昭和35年(1960)と昭和47年、昭和59年の連続立面図です。街並みの変遷を記録するために、東京電機大学建築学科がまとめたもので、道路の南側約800mにわたって記録がなされました。東京オリンピック前の昭和35年(1960)には二階建てを中心とする商店が続いていた街並みが、ほとんどが建て替えられ、高層化している様子がわかります。拡幅前に対象地に存在した建物全86棟のうち、平屋建ては19棟、2階建ては61棟でした。しかし昭和47年(1972)には総棟数は76棟に、平均階数は3.6階に変化しました。とくにそれまでなかった9~10階建てのオフィスや共同住宅を含む建築が目につきます。このように東京オリンピックの前後で街並みは一変していきます。
 この間、多くの建物はもとの敷地ごとに個別に建替えられていきました。一方で一部の敷地は統合されて大規模な建築物が建てられました。もともとこの地域には通り沿いの商店の背後に多数の戸建ての住宅が建っており、表通りだけでなく裏側も含めて敷地を統合したものでした。日本住宅公団により建てられた青山北町五丁目市街地住宅(現在の北青山三丁目市街地住宅)は当時まだ珍しい10階建ての共同建築物で、低層部には商店が入居していました(図7-6-4・図7-6-5)。
 『空にのびる街』(岩波映画製作所、昭和38年[1963]、後に丹羽美之・吉見俊哉編『記録映画アーカイブ2 戦後復興から高度成長へ 民主教育・東京オリンピック・原子力発電』東京大学出版会、平成26年[2014]に収録)という当時の記録映画には、この時の再開発に苦労する人びとの様子が記録されています。拡幅対象となった土地では、買収が急テンポで進められましたが、住宅や商店が密集していたこの地域では、敷地ごとに複雑な権利関係が存在し、権利関係者の思惑も絡んで共同化も一筋縄ではいきませんでした。再開発を契機に当時の東京が抱えていたさまざまな問題が露呈したのでした。
 当時、この再開発にコンサルタントとして関わった大塚雄司は、それまで各人の自由意思により個々の土地を使用していたのに対し、都市を立体的に再開発するには共同化して土地を有効利用するべきであること、そのためには個人意識から共同意識への転換が必要だが、それには相当の勇気と努力が必要だと述べています。
 結局、東京オリンピックを挟んで昭和37年(1962)3月末から昭和40年1月1日にかけて港区内には実に総延長5万7,291m、面積54万9,600m2の道路が整備され、沿道の街並みも大きく変貌しました。しかし、その背景には地域住民のさまざまな苦労や努力があったのです。一歩奥に入ると古い木造住宅が並んでいた青山は、こうして次第に現在のように大きなビルが建ち並ぶファッションの街に生まれ変わっていきました。
(初田香成)
 

図7-6-2 オリンピック施設配置・関連街路図(加工)
『都市住宅』1976年4月号、鹿島出版会より転載、一部加筆

図7-6-3 青山通り南側連続立面図の変遷(上から順に1960、1972、1984年。頁をまたぐ部分は一部省略してある)
八木澤壮一・吉本正信・吉村彰『都心の土地と建物』(東京電機大学出版局、1987年)より転載

図7-6-4 青山北町五丁目市街地住宅
公益財団法人都市計画協会機関誌『新都市』昭和37年3月号掲載

図7-6-5 現在の北青山三丁目市街地住宅(筆者撮影)