漁業補償以前

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 東京湾は、一般的には千葉県の洲崎と神奈川県の剱崎(つるぎさき)を結ぶラインの北側の海域を指します。南北約80km、東西約10~30km、面積が1,500km2ほどの海域です。水深は概して浅く、湾の中央では12.3m、湾の奥に入るにつれいっそう浅くなります。そのうち富津(ふっつ)岬(房総半島)と観音崎(三浦半島)より奥の内湾と、その南側に広がる外湾に分けられます。内湾は、さらに小櫃(おびつ)川と多摩川を結んだラインの北側の湾奥と、南側の湾央に区分されることがあります。人口に膾炙(かいしゃ)する「江戸前の海」は今日では内湾を指し、中でも湾奥の北西を中心とする海域がほぼこれに相応します(図7-7-2)。芝一丁目・四丁目(本芝浦・金杉浦)に居住した漁民は、この湾奥で漁業を長く営んできました(図7-7-3)。

図7-7-2 東京湾図
菊地利夫『東京湾史』(大日本図書、1974年)より作図

図7-7-3 芝海漁舟(『東海道名所図会』より)
国立国会図書館デジタルコレクションより転載
江戸時代にさまざまな漁船とともに芝浦で繰り広げられていた漁の様子が描かれている。


 東京湾内湾漁業の歴史は古く、縄文時代までさかのぼります。中世には、のちの本芝浦・金杉浦につながる漁村が沿岸に形成され、江戸時代に入ると両浦は将軍家御菜(みさい)上納の元締めとなります。また江戸時代初頭、両浦の漁民は東海道往還に出て鮮魚を商うようになり、魚市が立ちます。主に雑魚(ざこ)を売りさばいたことから雑魚場(ざこば)と呼ばれ、賑わいをみせました。
 しかし、幕末に近づくにつれ漁獲高が減少、近代以降は、海洋環境の劣化、海域周辺のまちの変化、震災や戦災などにより盛衰を繰り返しながら、昭和37年(1962)漁業補償の年を迎えました。明治時代以降の移り変わりを、少し詳しくみていきましょう。
 明治初期の詳しい状況を知る手がかりはほとんどみられませんが、明治14年(1881)には本芝浦・金杉浦に102戸の漁業者があったことが記されています。海苔養殖はおこなわれていません。本芝浦・金杉浦で海苔養殖が始まったのは明治19年(1886)のことで、明治23年の記録では、海苔業者は両浦併せて100戸でした。海苔業の成長は、内湾漁業に大きな影響を及ぼし、明治初期に衰えをみせた内湾漁業は中期以降、再び勢いを取り戻します。明治34年(1901)には、本芝浦・金杉浦の漁業者は150戸に増えました。この頃の本芝浦・金杉浦の漁師は、台場周辺の海域でシバエビ漁や、アサリ、カキなどの採貝に従事し、水深が3~4.5mほどのやや深い海域で、イワシ・シバエビの打瀬網漁や、サワラ・タイの延縄漁をおこなっていたことが記録にあります(図7-7-4)。
 大正時代に入ると、カキと海苔を中心とする養殖業が発展し、東京湾内湾は全国一の海苔の生産地の名声を得るに至ります。大正12年(1923)9月1日、関東大震災に見舞われた東京湾内湾漁業は、特に養殖業で莫大な損害をこうむりますが、市民の食の確保に奔走した漁民の努力により漁業生産はむしろ増強したといわれています。芝浦に開設された仮設市場(図7-7-5)は、その象徴といえるかもしれません。漁業の隆盛は昭和初年の頃まで続きましたが、アジア・太平洋戦争を境に状況は大きく変わります。とくに戦争にともなう労働力の低下や資材不足は漁獲高の減少に直結し、戦争終期に向かうにつれ、内湾漁業の衰亡はますます深刻なものになっていきました。
 戦後、漁獲高は間もなく上昇に転じていきますが、既に明治期以降の港湾整備などを目的とした埋立て造成により漁場が狭められていた上、住民の増加、都市化の進展や工場の急増による海洋環境の劣化が追い打ちとなり、昭和20年代後半以降の生産の不安定期や停滞期を経て、昭和37年(1962)漁業補償の年を迎えました(図7-7-6)。

図7-7-4 「東京湾漁場図」(部分)
君津市漁業資料館所蔵

明治41年(1908)に、泉水宗助(せんすいそうすけ)によって作成されたもので、湾内で展開している漁業がよくわかる。台場付近には、はまぐり場・養殖場(カキ)の記載がある。

図7-7-5 芝浦仮設魚市場

関東大震災で壊滅し、大正12年(1923)9月17日に開設された芝浦の仮設市場が、12月1日、築地に本設の市場として移転することが告知されている(下)。

図7-7-6 埋立て造成の計画と漁場

東京都内湾漁業興亡史編集委員会編『東京都内湾漁業興亡史』(1971年)収載の第210図より作成
東京港の整備他にともなう埋立造成計画図(昭和35-45年)で、のり漁場・共同漁業権漁場の範囲に併せ、漁業補償の対象範囲案が示されている。