上巻

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常磐公園攬勝圖誌上巻
             水戸 松平俊雄編述
   總説
偕楽園は我水戸景山の公の設けられたる囿園にして水
戸城西弐拾餘町東茨城郡常磐てふ邑に在りそも/\
此公の政績は遍く世人の知る所にして今くた/\しふ記さんも
煩はしけれは黙止つ唯此園の就れる始め終り見もし聞
もしつる事ども書列ね将其土地のさまをも寫しおさめ
て貮卷とし遠近人の杖を曳て此園に遊ひぬる土産に頒
ち與へまほしく斯はものしつ偖此園の開きそめしは往じ
天保十一年庚子公封土に就せ給ひてより稜威の四方にと
どろき脩文講武よろつの業をおしへ導き民を撫育し
 
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東北より偕楽園を
望む図
 
 觀園中梅花
   石川清秋
晴天飛雪雪芬芳
千朶萬枝照八荒
是北是南幾瑶璧
何邉何處不清香
花神籠月涵寒影
氷魄聯珠吐夜光
水酌山觴汝爲友
半塵不到此仙郷
 
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表門
 
農を勵まし衆庶其恵みを被りて各鼓腹の楽みをきはめ
ざるはなかりき又風雅の道にも御志し深く此地に屡逍遥
せられ山水の浄く妙なるに愛て此處に殿造りせられん
事思したちて親ら其図を畫きて土木の事何くれとなく
ねもころに教へさとされ同十二年丑五月中旬より十三
年寅七月に至り経営全く就て亭を好文楼をは楽壽と
呼せ給ひ又其事実をは碑に鑴りて園中に建られ永く遊
息の地と定めらる當時此地に七面の祠ありしを西隣見川
村妙雲寺といへるに迁し又其近き邊りに常磐邑の畑地
有しをも換地賜りて一郭に籠られ梅樹数千株をうつしまた
芝生へは秋萩幾根となく植付て漢土の賢き人の言葉に
源き偕楽園とは号けらる是は東武の水戸邸なる後園を
 
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中門
 
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西山公の後楽と呼せられしに因まれけるにや明治の御
代となりて藩を廃し此地も宦に収む然るを公の遺蹟
を不朽に傳へまほしく同六年朝廷の御許を受て公園と
はなりぬされは司園吏を置て苑中の事取扱はせ總て
舊時の侭にして改めす同十六年更に維持の法をもふけ
縣廰の職員商議して各俸給の内幾分を募り以て修繕
の料にそのふ又春秋二季職員好文亭に會して宴を開
く是を楽壽會と名付恒例とはなしぬ
好文亭表門  戌亥に向ふ前は筑波街道にして川和田
 鯉渕宍戸等への通路とす門より内正面に木戸あり是を
 入りて中門迠の間凡弐百間許道の左右杉林にしてその
 罅所〻と竹篂あり往年此園を開かれしおり山城州男山
 
 の竹をうつされしといふ又表門の内左右土塁のうえに
 繁茂せる矢篠も同時に植付られたるものにして武用
 の一途にそなへられしとなり[當時此竹を用ひて弓箭を製せら/れたる事もありしと聞けり]
中門 横九尺許葭茅茸西にむかふ門を入りて右の方は
 玄關跡地にして左りは梅林及び植物園なり正面に園
 内入口の木戸あり建家はすへて弐拾餘棟有て半ばは上
 市柵町にありし別殿を引せられしものなりしが其後公園
 となりしより是迠破壊せし場所をは撤毀ち修繕の
 料を省かれ今は其三か一を残せり
偕楽園の碑 玄関前の木戸を入て少く阪路を下り又南
 に折れ凡そ三拾間ばかりにして碑石の前にいたる自然
 の平石にして髙サ八尺三寸横八尺石質堅硬にして色靛
 
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玄関
 今廃す
 こゝには
 舊時の景
 況を図す
 
12     
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黒碑面は篆書にして六百拾字を刻す上の方に古篆
にて偕楽園記の四大字を題す周囲に梅樹の摸様を画
き背に園中の禁條を掲く景山公の撰文にして書も同
公の筆なり
 
篆額  偕樂   縦壱尺五寸
    園記   横壱尺三寸
         文字置上彫
 
偕樂園記        読み下し文
天有日月地有山川曲成萬物
而不遺禽獣艸木各保其性命
者以一隂壹陽成其道弌寒弌
暑得其冝也譬諸弓馬焉弓有
弌張弌弛而恒勁馬有弌馳壹
息而恒健弓無弌弛則必撓馬
旡壹息則必殪是自然之勢也
夫人者萬物之靈而其所以或
爲君子或爲小人者何也在其
 
13     
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偕楽園の碑
 
心之存與不存焉耳語曰性相
近習相遠習於善則爲君子習
於不善則爲小人今以善者言
之擴充四端以脩其德優游六
藝以勤其業是其習則相遠者
也然而其氣禀或不能齊是以
屈伸緩急相待而全其性命者
與夫萬物何以異哉故存心脩
德養其與萬物異者所以率其
性而安形怡神養其與萬物同
 
14     
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者所以保其命也弍者皆中其
卩可謂善養故曰苟得其養無
物不長苟失其養无物不消是
亦自然之勢也然則人亦不可
無弛息也固矣嗚呼孔子之與
曾點孟軻之稱夏諺良有以也
果繇此道則其弛熄而安形怡
神將何時而可邪必其吟咏華
晨飲醼月夕者學文之餘也放
鷹田埜驅獸山谷者講武之暇
 
也余嘗就吾藩跋渉山川周視
原野直城西有闓豁之地西望
筑峯南臨僊湖凡城南之勝景
皆集弌瞬之閒遠巒遙峰尺寸
千里攢翠疊白四瞻如弌而山
以發育動植水以馴擾飛潛洵
可謂知仁弌趣之樂郊也於是
藝梅樹數千株以表魁春之地
又作弍亭曰好文曰一遊非啻
以供他日茇愒之所蓋亦欲使
 
15     
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國中之人有所優游存養焉國
中之人苟體吾心夙夜匪懈既
能脩其德又能勤其業時有餘
暇也乃親戚相携朋友相伴悠
然逍遙于弍亭之間或倡酬詩
歌或弄撫管弦或展紙揮毫或
坐石點茶或傾瓢尊於華前或
投竹竿於湖上唯从意之所適
而弛張乃得其宜矣是余與衆
同樂之意也因命之曰偕樂園
 
天保十年歳次己亥夏五月建
  景山撰并書及題額
 
偕樂園記                   読み下し文
天有日月。地有山川。曲成萬物而不遺。禽獣草木各
保其性命者。以一隂一陽成其道。一寒一暑得其冝
也。譬諸弓馬焉。弓有一張一弛而恒勁。馬有一馳一
息而恒健。弓無一弛則必撓。馬旡一息則必殪。是自
然之勢也。夫人者萬物之靈。而其所以或爲君子或
爲小人者何也。在其心之存與不存焉耳。語曰性相
近習相遠。習於善則爲君子。習於不善則爲小人。今
 
16     
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偕楽園
 
園中より東
南の間千湖
を平臨する

 
夏の比偕楽園に
     来て
   福羽美静
ますらをの
  おこしゝ
    風や
のくるらむ
 はのなみ
   ならぬ
園の
 すヽしき
 
   佐々木重之
煙林濃淡鎖邱原
官苑不知塵世喧
柳影花光涵水面
断崖竒石露松根
勝遊寧問輞川境
豪興豈誇金谷園
竟日逍徉幽邃地
歸途試欲覔仙源
 
17     
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以善者言之。擴充四端以修其徳。優游於六藝以勤
其業。是其習則相遠者也。然。而其氣稟或不能齊。是
以屈伸緩急相待。而全其性命者。與夫萬物何以異
哉。故存心修德。養其與萬物異者。所以率其性而安
形怡神。養其與萬物同者。所以保其命也。二者皆中
其節。可謂善養。故曰苟得其養。莫物不長。苟失其養。
无物不消。是亦自然之勢也。然則人亦不可無弛息
也固矣。嗚呼孔子之與曾點。孟軻之稱夏諺。良有以
也。果由此道。則其弛息而。安形怡神。將何時而可邪。
必其吟咏華晨。飲醼月夕者。學文之餘也。放鷹田野。
驅獸山谷者。講武之暇也。余嘗就吾藩。跋渉山川。周
視原野。直城西有闓豁之地。西望筑峰。南臨仙湖。凡
 
城南之勝景。皆集一瞬之間。遠巒遙峰。尺寸千里。攢
翠疊白。四瞻如一。而山以發育動植。川以馴擾飛潜。
洵可謂知仁一趣之樂郊也。於是藝梅樹數千株。以
表魁春之地。又作二亭。曰好文曰一遊。非啻以供他
日茇愒之所。蓋亦欲使國中之人有所優游存養焉。
國中之人如體吾心。夙夜匪懈。既能修其德。又能勤
其業。時有餘暇也。乃親戚相携。朋友相伴。悠然逍遙
干二亭之間。或倡酬詩歌。或弄撫管弦。或展紙揮毫。
或坐石點茶。或傾瓢尊於花前。或投竹竿於湖上。唯
従意之所適。而弛張已得其冝焉。是余與衆同樂之
意也。因命之曰偕樂園
天保十年歳次己亥夏五月建 景山撰并書及題額
 
18     
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     禁條
    凡遊園亭者不許先卯而
    入後亥而去
 碑  男女之別冝正不許雜沓
 背  以亂威儀
 面  沈醉謔暴及俗樂亦冝禁
    園中不許折梅枝采梅實
    園中不許無病者乘轎
    漁獵有禁不許踰制
 
偕楽園 碑石の前を東に出れは總て苑中にして東北の間
 は皆梅林なり東西凡そ弐百間南北六七拾間許にして梅樹
 五千餘株に及へり南の方は数千歩の芝生にして秋萩或は
 種々の樹木を植並へて春秋の眺め最妙なり就中萩躑躅
 をもて壮觀とす東は常磐神社の境外に接し西は嶮岨に
 して下に一條の通路を開き桜川の流れに臨む又崖上に十
 株の老松ありて其下に石造の碁将棋盤弐面を設けて観
 客の游戯に供す号けて仙奕臺といふ此ほとりより東
 南の間千湖を平臨するに碧水渺茫として妙法崎梅戸崎
 は北岸に沿ふて常磐山の深林に連り三魂ヶ崎は東岸に
 在て濱田の市坊及ひ藤柄の人家を控す吉田の杜笠原
 山は南岸にありて静瀲緑を涵し又遥かに磯濵の松原を
 
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園中東南より
楽壽楼を望む
 
偸閑來避暑
地僻遠笙歌
荷老幽香動
松垂凉意多
園林留鶴守
山雨送雷過
忽遇清風起
長吟破睡魔
 小河逸齊
 
  菊池為馨
八重霞吹とく
 風も匂ふなり
おくある梅の
 みとのふの
     はる
 
     重之
仙閣超然對筑峰
飛樓懸棟出喬松
山光縹渺連天淡
水色琉璃接地濃
 
20     
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     重之
石棋枰上幾回圍
落子丁々響翠微
恐他遊客傍觀者
不到爛柯終不歸
 
仙奕臺
 
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八景の碑
 
僊湖
 
 望む西に顧みれは緑か岡の蒼松欝々として桜川の清流
 其南麓をめくり直ちに園下を經て東流し湖に注く筑
 波葦穗の遥巒連りて晩霞の表に聳え白雲岡に對
 ひて彌生の爛漫たるを觀る就中中秋の月白妙の雪
 の晨は其眺めことさらにいわんかたなく凡そ騒人墨客の
 眼を娯ましめ心をなくさむるもの皆顧回一瞬中にあり
八景の碑 仝所南の崖下に在自然石にて高四尺五寸幅三尺
 七寸景山公の隷体にて書れたる仙湖暮雪の四大字を刻
 す公嘗て瀟湘の八景に擬ひ封内の勝地を撰ひ各所に八
 景を置く此地則ち其一に居れり所謂八景は廣浦秋月[東茨城郡/下石嵜村] 岩舩夕照[同郡/磯濵村] 仙湖暮雪[同郡/常磐村] 水門
 帰帆[那珂郡/湊村] 村松晴嵐[同郡/村松村] 青栁夜雨[同郡/青栁村] 太田落
 
22     
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苑下桜川の流れに
沿ふて舩蔵を設け
常に遊舩弐艘を浮
べ釣魚網引又鷹狩
等の用に供せられし
が今廃せり
 
 雁[久慈郡/太田町] 山寺晩鐘[同郡/稲本村] 等なり 右題字を表せし碑石
 今に現存す
躑躅 八景の碑石より西の方桜川の流れにそひて梅林の裏
 を行く事凡一町餘にして又北に轉じ坂路を上り園内入
 口の木戸有それより内躑躅幾根となく道の左右を挟
 みて岩につき石に傍ふて大なるは其丈七八尺に至るもの
 あり霧島さつき黄躑躅絞其他種類多くして四月
 中旬より其花咲そめて紅白互に色を竸ひ一時の壮觀也
 [此内紫躑躅は花形尋常のものより大にして世に珎らし這は天保中公日光
 社参のおり同地よりもたらし來り苑中に植しめられしとなり]
吐玉泉 好文亭の前より西の坂路を曲折して降る事凡
 一町半程にして方七八間計平坦の地あり中央に寒水石を
 彫穿ちて造りたる井筒を設け径り四尺高サ三尺厚サ六寸三
 
23     
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躑躅
 
  重之
薫風亦欲
竸豪奢爛
熳齊開躑
躅花樂壽
樓前紅錦
障仙人湖
上赤城霞
 
 分底に礫を敷詰正中に銅管ありて清泉湧出す常に
 井筒より溢れて側らなる溝渠に入り田畞の用水となる
 寒暑増減なし元此地に七面の社ありし頃杉の大樹有
 てその根かたより湧出て眼疾を患ふる者此泉に涵し
 て効験ありと云傳ふ其後杉も朽倒れ此邉りいたく荒て
 尋る人も稀なりしか偕楽園を開れたる折荊棘を芟り
 除きて今の如く井筒をすへ飲料に用ひらるゝ事には成
 りしといふ此地もとより幽邃にして松杉蓊欝として枝を
 交へ常に日光を遮り暑を避るに最も宜し
杜若 白蓮 吐玉泉へ到る路の左少く池の形を作り杜若幾
 種をうえ又其側なる溝渠に白蓮を多く植らる又路より
 右の方に黄桜一株あり是は温暖の地にあらざれは生長せ
 
24     
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吐玉泉
 
 す故に駿遠参の間に多く北地には稀なり世人その
 色の異なるをもて是を賞せり然れとも尋常の花の
 艶なるに如す
好文亭 園の中央にあり東西六間南北三間中央より區別し
 東の方三間四面は總板敷なり西の方三間四面畳敷其中
 六畳一間を仕切りて上段とす其餘は南より北に折まはして
 入側なり表の方承塵の上に好文亭の三字を篆書にて
 かゝれたる扁額を掲く景山公の親筆なり此間の後背に
 三室ありて東板敷の間と相通し此より階梯有て楼上
 に到る西に續ける一間は南北へ六間東西へ三間總板敷なり
 天井は杉皮の網代を用ゆ是より北に一室あり九尺四面に
 して南向に床有其左りに茶室へかよふ入口ありて承塵の上
 
25     
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    関雪江
地對平湖竹木圍
勝區如此比應稀
好文亭外梅長在
偕樂園中鶴不歸
宿雨初収新樹暗
浮嵐纔動暮山微
王公舊榭空無主
唯有昵喃燕子飛
 
好文亭
樂壽楼
 
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亭中眺望
 
27     
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樂壽楼正面
 
   川田 剛
當年卜築費經營
聞説遊豫此挙觴
滕閣風烟供遠矚
梁園賓客聚群英
放鷹林古禽相集
調馬塲荒草向榮
俯仰休埀懐旧涙
常磐祠宇自崢嶸
 
28     
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何陋庵
 
庭劣立錐同蠏堁
庵絻容膝等蝸廬
休言營造如斯陋
瓊室元非君子居
 
29     
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 に對古軒の圓額あり是又同公の書なり是より内板敷
 にして左の方は茶室なり九尺四面中央に爐あり南に床
 あり柱は躑躅の古木を用ゆ北表に入口ありて承塵に何
 陋庵の三字を艸躰に彫成たる額を掲く前栽は六坪許に
 して斜めに竹垣を結めぐらし北の隅に古き石燈篭一基
 を居え南天燭五根を植たり西の方に栞戸あり此處を出
 て西に回れば待合あり間口九尺奥行六尺葭茅葺總体
 椚の丸木造りにして三方は壁なり内に腰掛を設け又壁
 には方圓の板三片へ篆書隷書草書等にて茶説茶對そ
 の他題字を彫たるを塗こめ其餘は一面に落葉の摸様
 を塗出せり夫より北に小門ありて中門に通ふ道の中程に
 達す總て此ほとりは樹木深く茂りて青苔滑らかに自
 
 ら物古りて好雅の眼をよろこはしむ
石燈籠 何陋庵の庭前にある石燈籠は異形にして古
 きものなり大同年製の由言傳れとも詳かならす總
 髙四尺五寸笠石徑壹尺五寸火袋徑壹尺棹石竪
 壹尺弐寸許あり
 
30     
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       君子之徳風
       小人之悳艸
 
 好 好     好文亭南表承
 文       塵の上に掲く縦
 亭       壹尺五寸横四尺
 の 文     弐寸厚壹寸四分
 額       文字彫下紺青に
         て之をうつむ地板
   亭     欅の珠木理なり
       
 
     亭中の扁額は盡く景山公の親筆なり中にも好文
     亭楽壽楼の額は筆力健勁頗る飛動の勢いあり故に
     衆人の賞賛するところなり
 
31     
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 樂 楽     樂壽楼南おもて
 壽       承塵の上に掲ぐ
 樓 寿     縦壹尺五分横弐
 の       尺三寸厚壹尺壹
 額 樓     分桜板唐木色付
         文字彫下糊粉にて
         これを埋む縁木は
         松の皮付なり
 
            仝背面
            景山書刻 
 
 何 何     茶室の表承塵
 陋       の上に掲ぐ竪九
 庵 陋     寸横弐尺三寸八
 の       分板杉の洗ひ
 額 庵     出にして文字すき
         さけ彫なり
 
32     
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水戸家に傳ふる
茶器数千品の
中に那珂川薄雲
新田肩付等
の茶壷およひ
曜変なといえる
天目は世に聞えて
めつらし又水戸
哀烈二公は親ら楽
焼の茶碗を製し
藩士に頒ちあたへ
られし事も有し
今に御庭焼抔
いゝて人是を賞せり
 
對古軒の圓額
 
    やまにいる人
  世をすてゝ山にても 對古軒より茶室江通ふ
  對古軒       入口承塵の上に掲く地
   なほうき     板唐木色付文字すき
            下彫徑り壹尺壹寸六分
            厚さ六分背に銘あり
    ときはこゝにきてまし
 
        裏 景山對詠及書刻
 
33     
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蝦蟇石 好文亭の簷下なる脱履石を云ふ縦八尺横四
 尺五寸計あり蝦蟇の背に似たる班文あるを以て斯號く
 此石もと同郡谷田村羅漢寺の境内に在しか彼寺廃せ
 し後この處にうつすといふ
楽壽楼 好文亭の楼上を爾となふ東の板敷より北の
 一室に入り階叚を西に曻りて板敷あり南の方に一小室有
 此板敷より弟二の階叚を南に上りて楼上に達す北より南江
 三間半の入側ありて東に回れは正室なり弐間四面北に床
 あり薩摩竹を床柱とす囲り弐尺七寸餘床に添ふて西の
 方に圓窓あり欅の大木を彫穿ちたる一片にして徑五尺
 六寸厚六寸余なり[此欅は公在国の頃追鳥狩ありしとき太鼓を製せられ/しが其余材をもて此窓に用ひられしといふ太鼓は]
 [今常磐神社神楽殿にあるもの/是なり図説弟二卷につまびらかなり]此室南を正面とし三方すへて欄
 
34     
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   川田 剛
明公偉略見遺蹤
營得莵裘亦要衝
碧水涵天連大海
青山排闥聳双峰
層楼曲榭臨平野
恠石竒巖倚古松
是雖一班他可識
雄藩丗五萬提封
 
楽壽楼上より千湖を
望む図
 
35     
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楼上より西南を望む図
 
  戸村義暢
村時雨そめて
 みとりか岡の
   名も
ことさら
 しるき
まつの
 むら立
 
 妙雲寺 筑波山 緑ヶ岡 曲直港 窈窕阪 つく分山 丸山 廿きよし 桜山
 
  戸牧久
 緑岡
したわしき風も
 そよきて
岡の名の
 みとりときめく
 夏は来に
    けり
 
 不動院春秋氏古城 水車 桜川の古道 藤たなのあと
 
36     
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櫻山
 一に白雲岡といふ
輕風澹日弄青隂
先雨來看櫻樹林
身入花中花不見
雙眸只覺白雲深
 
    戸牧久
桜山咲のさかりは
  立ましる
松のみとりも
 めつらしきかな
 
 見和村 筑波道 栁隂水 小渡川
 
  戸村義暢
散れは又
 咲つく
  花の桜山
いつをかきりに
 なかめ
  はてまし
 
 一遊亭趾
 
37     
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櫻山春興
 
   津田信存
萬株歳々玉盈枝
管領春光復有誰
草茵閑坐香風底
正似君恩煦育時
 
    小林至剛
かへさをも
  わすれし人か
 桜山
  月影ふみて
 うたひつれ
     たる
 
38     
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 を設く南面承塵の上に楽壽楼の三字を草躰に書れた
 る扁額を掲けたり是また公の筆蹟なり正室の北入側を
 隔て二小室あり是を休息所とす此所は厨のうへにありて
 杯盤等を直ちに楼上に釣上るために鉤縄様のものを設
 く是其運搬の勞を省かれたるものにして公の意匠に出る
 ものなり抑此楼髙陵のうえに又三重に組立たる髙さ三拾
 尺の上に聳へ欄に凭て四顧すれは山河皆眼下にあり凡園
 中各所の眺望集めてこゝに大成すといふべし
亭中の桐戸襖の類ひは當時府下の書画に聲ある人々に
 命せてかゝしめられしと也又真假名平假名片假名或
 ひは紐鑑よふのものをは桐戸四枚に記し載て詠歌の
 資とし平仄の韻字を集めて詩作の料に充らる是等
 
 茶對
                 何陋庵の待合
 或問子学茶法乎吾對曰      壁中に塗込たる
 未也嘗聞之其味也苦而甘     ものなり中ほと
 其器也蔬而清其室也撲而閑    差わたし壹尺
 其庭也隘而幽其交也睦而     四寸弐分文字
 禮数會而不費能樂而不奢     彫下板は桜の
 如此而己矣其反之者吾所     唐木色付なり
 不知也
 天保壬寅孟春
  景山
 
39     
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放鄭聲
遠佞人
 
茶説
人之於禮不可一曰無也大則邦國之
經綸小則閨閤之細務有禮則治無礼
則亂雖小技亦然余暇日爲雲蕐之技
其中自有禮節廢之則事亦不可行也
而其可取者三焉可舎者三焉以易得
之器與難得之寶比焉而不耻者所以
示以富貴交貧賤也其調麤食爲美味
 
者所以示化不肖爲賢也其聚古物言
玩之者所以示慕古也若夫垢清器傷
全物以贋古製者敎民僞也上箸碗盞
博之千金果菜魚鳥競致珎異者敎民
奢也品評器什極口賛揚者敎民諛也
舎此取彼斟酌以用之可謂善行茶礼
者也歟金玉之爲至寳芻養之爲美味
人之所同好也我則不然以尺木爲冥
以芳卓爲羞矣富貴之爲尊貧賤之爲
卑亦人之所同然也我則不然貴賤共
 
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廣而不相褻促膝劇談雖臣子相伍焉
是數者吾技之所獨也質而雅和而不
流君子之交也孔子曰禮與其奢也寧
儉雖小技其庶幾乎
 
茶説
縦壹尺三寸横弐尺七寸五分櫻板唐木色付文
字彫下なり但し四分の一をもつて縮寫す
 
巧詐不如拙誠
茶對茶説と同く待合の壁中に塗籠たるものなり
縦三尺壹寸横壹尺四寸五分欅板にして文
字肉合彫なり
 
巧詐不如
拙誠
 
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 は舊藩士名越敏樹松延道圓の兩筆なり又水戸家所
 蔵の中より古色紙短冊数拾枚撰ひ出して桐戸四枚に
 摸し好古の観覽に供す是も同藩醫小松玄甫といゝし
 人の筆なり画は萩谷遷喬三好守真岡田一琢等いつれも
 水墨にて揮はれたる山水又は梅竹の模様なり總じてこの
 亭の結構は柱礎の堅きを専らとし工みのいたつかはしきを
 加へす然して毎室布置最も其宜しきを得たり木材はすへ
 て松杉の類ひを用ひて他木を交へす多く領中の山林より
 出せるものにして他邦より求るもの至て稀なり彼上
 代の質朴なるに傚はせられ華美虚飾をもとめすされ
 ば起工の始めより豫じめ其費用を概算し工竣るに及ひ
 て猶幾分の餘額あり故に半は窮民を賑はし半ばは園
 
 中修理の料に充らる又苑中の樹木も自然の生長に
 隨かひ敢て矯楺の酷しきを加へす能其生を保ち一も枯朽
 にいたるの患ひなく歳ことに枝葉茂りて緑の色深くおのつから
 避塵の趣きを表し雅客のこゝろを慰むるに足れり又種々
 の盆栽を多く集められ苑の側に温室を設け培羪せられ
 けるか白楳の古木弐鉢は殊に勝れてめつらしく人々多く
 賞美せしと聞けり
楼上に通ずる階段のもとより東の方斜めに橋廊を架し直ち
 に奥殿に到る此處は西より東北に折廻らしては室にわかつ
 東の二室を正室とし南に向ひて入側あり北に續ける弐室を
 奥對面所とす尚北に續き書院表對面所有司の詰所并
 ひに玄關等もありけるか年を追ひ破壊多きをもて撤毀ち
 
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 修補の費用幾分を減す又西の一棟は厨にして総板敷なり
 是より西は茶室に通す又同所の西北に隣りて長局弐棟在
 りて中門の邊まて連りしか是も同時にとり除き今杉林と
 なれり
二季咲の桜 奥殿の庭并ひに偕楽園の碑石より南の方苑中にあ
 り花片尋常のものにして色純白なり春冬両度に花を
 發く就中十月をもつて多しとす故に十月桜ともよべり
 是は舊藩士久米某の邸中にありしを移されしものとぞ又
 貞享元録の頃大和芳野の桜苗を七面の境内に植られしこと
 或書に見たり是今好文亭東板敷の前なる櫻の大樹ならん
 と云へり又仙奕臺の邊りに松樹ひと根は駿州三保の松原羽
 衣の松苗をうつされしとなり[此外園中の小松は當国行方郡濵村高須/の松の実生なる由云傳ふ]
 
櫻山 一に白雲岡と号く偕楽園の西弐町許を隔て見和
 村の地に有公園の附属たり東西凡弐百間南北八拾間の
 岡にして一面の芝生なり天保中偕楽園を開かれし時此
 に櫻樹数百株をうへて游観の地となせり弥生の初旬
 より咲そめて満山雪と詠め雲と見紛ふばかり貴賎打
 群てこゝに逍遥す一時の奇觀たり
一遊亭 櫻山は偕楽園に次て絶景の地なり眺望粗相似
 たり故に公はじめ此處に園を開かれんとせられしも地
 域の狭隘なるをもて今の地に改めらるゝと云されば此所に
 もさゝやかなる亭を設けて休息所とせられ一遊亭と号
 けらる後故ありて廃せり
玉龍泉 一に栁隂水ともいへり桜山の北の崖下にあり徑弐間
 
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玉龍水 又栁隂水ともいふ
 
 許の圓き池の形ちを造り内に大石を居へ鉄管を仕込み
 其中より水を噴出す髙さ一丈餘に到る水源は岡の南
 一町ばかりに在り公固より水理に精し嘗て雲霓機纂
 と云へる書を著はし領中に頒ち與へて灌漑の用に供す
 其水に乏しき村落は此用法にならひて最も益を得る
 といふ此噴水も亦公の意匠より出るものなり
丸山 桜山の東に續きたる圓き丘にして東西弐拾間南北拾
 五六間程ありて栁桜松海棠の類ひを植たり此丘は往じ
 寛文年間水戸義公緑が丘に髙枕亭を設けさせられし
 折この所にも小堂を営み陶渕明の木像を安じ渕明堂と
 号す又壁障に猩々の画を貼せしをもて猩々亭酒星堂
 とも稱へられしとなり[此丘の北小渡川に架せる棚橋あり今に猩々/橋といへるもこゝに通ふ路にありし故の名なりとぞ]
 
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  吉田今世
露ちらす
  萩のにしきの
 秋風を
  松のみとりに
   やとしてや
     きく
 
   大場恕軒
暮るまて
  あかす見よとや
  ゆふ月の
    光りをそふる
   露の玉萩
 
 秋萩蛩
凉夜蛩聲徹暁喧
萩花叢裡不禁繁
知儂亦訴秋光早
要使遊人探楽園
 
園中の萩
 
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 因に云ふ水戸の儒臣吉弘元常[通称佐介字は子常初名玄/仍磬斎又菊潭と号す周防の]
 [人水戸侯に仕へて儒臣/となり食禄三百石を賜ふ]一日同僚と共に詩をもて會す元常
 思ひらく彼管公の詩歌を閲するに菊に題せしもの梅
 松を賦し給へる詩歌より多しされば相公の詩に
   不是秋江煉白砂  黄金化出菊叢花
   微臣把得籯中満  豈若一經遺在家
 此句意をとりて相公採菊と云へる題を出しておの/\
 佳句を得られしとなり水戸義公此事を聞およばれ
 元常優くも雅事を好むものかなとて菅公採菊の
 図を親ら画き画工狩野養朴に命じて彩色を設し
 表装成りて此渕明堂に掲け祭式おわりて後元常
 に賜はりしことなり其頃有栖川幸仁親王より懐紙を
 
 たもふ
  いつれよりまつ咲出る色を見んうへて花待庭のむらきく
 此外大友親里石尾氏信庵木貞幹木下玄雲の諸子争
 つて詩賦を贈り元常か風雅の渥きを賛美せられしと也
櫻川 偕楽園の西南崖下を東に流るゝ小川にして源を同
 郡池野邊村朝房山の南麓に發し大足川和田見川常
 磐の数ヶ村を經て園下髙橋にいたりて千波湖に會せり
 天保の初めまては見川千波两村の地先を貫流し直ちに
 湖中に入りしか偕楽園を開かれしおり水路を改め今の見川
 村不動院の下より新たに疏通し緑か岡の南麓を北に廻り
 丸山の北にして小渡川を入れ東流し園下を經て湖中に
 落つる事にはなりし其两岸には楓樹及び款冬の類ひを
 
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水戸の儒臣
吉弘元常菅
公採菊の題
にて同僚を
集め詩會を
催す事本文
に委し
 
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梅林
 
横斜疎影枕
仙湖幾朶笑
凝氷雪膚風
信一番吹此
界暗香千里
使人蘓
 佐々木重之
 
 植物園
 
    睦子
世々をへて
  なをこそ
   まされ
類ひ
 なき
君か恵みも
  花の色
    香も
 
    忠子
雨はるゝ梅の林の
 露をさへ
こほして匂ふ
 はるの
  ゆふかせ
 
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 多く栽て竜田の錦をかざし花の影そふ井出の俤げをうつし
 騒人の詞藻を述る資けとはせられける又此川上一里許にし
 て見川村の地に两岸に古木の桜多くありて頗る佳景の
 地なり元録九年の頃水戸義公當國眞壁郡桜川より桜
 の苗木を移して游觀の地とせられ桜川と呼せ給ふ此所は
 川幅廣く膳棚渕牛卷渕弥平次渕なといへる深潭あり又
 菖蒲川蛙の杜といえる處もありて享保元文の頃迄は府下
 の騒人多く此に来りて詩歌の興を催ふし三絃今様の狂客
 は酒宴に帰路を忘るゝも多かりしか年歴る侭に桜も朽倒れ
 其四邊も甚く荒撫て尋る人稀なりしか近き頃田に鋤き
 畑にかえして大ひに風致を損ぜしかとも今に桜弐拾餘株
 ありて僅かにむかしの俤けを残せり
 
梅園  表門の東より常磐神社境外まて凡百八拾間幅凡
 そ六七拾間程にして尽く梅林なり其数凡そ五千餘
 株に及ぶといふ其他園下桜川の北岸より吐玉泉に到る
 の間崖にそふて弐百餘株あり又常磐村元山町の出口ゟ
 表門の前通り迠道の左右に植るもの百余株なり又
 今の常磐神社境内外の地とも舊偕楽園の一郭内にて
 梅林なりしといふ初め園中一万株を植られしか一時培養
 を欠れしより毎年に枯稿し今に至り其半ばを減すといふ
 公稚きより梅花の清を愛し後領中に令して多く梅樹を植
 させらる天保九年大ひに文武を擴充せんか為め水戸城の外郭
 内に弘道館を設け又梅樹五千株をうへらる初め封内梅樹
 甚た乏しかりしか此に至て戸毎に其花を見る事を得たりこれ
 
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 其實を貯え置て非常の用に充らるゝの意なりしとそ
 嘉永年間の事とかや公近臣二人を﨑陽に遣はして蒸
 氣機關の結構を洋人に質聞せられしが二人其事おはり
 て帰途大宰府の菅庿を拝し飛梅の小枝を携へ来り
 て之を公に呈す公大ひに感賞し江戸駒籠の別業に栽
 培せしめられしといふ是公の平生風雅を嗜まるゝの一端也
 
常磐公園攬勝圖誌上卷畢
 
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