下巻

 
1     
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[茨/城]常磐公園攬勝圖誌 坤
 
2     
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常磐公園攬勝圖誌下巻
                                 水戸 松平俊雄編述
 此巻は偕楽園の一望中にある湖邉の勝地をところ/\
 撰ひて之を載す又偕楽園を開かれしより人事に渉れる
 事どもは繁きを芟り其要を摘て是をしるすされと漏
 たるも猶多かめればそは續編の成れるを待て記載す
 べし
緑ヶ岡 偕楽園の西弐町許を隔て丸山の南の方にあり
 見川村に属す此地は元同村緑川某の所有なりしか
 寛文五年水戸義公購ひ得て別野となし一亭を
 設け髙枕亭と号けらる[故に緑山或ひは/御殿山ともいへり]其苑を君子林北
 の岨路を窈窕阪といふ明の朱舜水此地におひて十境を
 
3     
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 仙湖南岸より
 偕楽園を望む
      久米幹文
梅の花ちりぬる
        比は
 ゆふなきの
 河にも浪の
  たつかとそ
     見る
      高嶋泰興
散梅をおのか
   こゝろの
 雪と見は
 帰らてすめよ
  池のかりかね
 
      朝比奈泰吉
ちる浪の
 花こそ匂へ
 梢には
  とまりも
 やらぬ
  岸の梅か香
      戸牧久
吹風に枝
 はなれても
   梅の花
 浮ふ瀬
   きよき
 はるの河水
 
4     
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下常磐橋
     又高橋とも云
 
 高橋
秋溪久無雨
水淺覺橋髙
不怪游魚散
去來車馬囂
 小林元茂
 
 津の国屋 常磐神社 清香庵 亀屋
 
      小林至剛
蛍飛常葉の
 橋のゆふ涼み
 手にとるほとの
  風も渡れり
 
      向坂氏和
月雪のなかめを
 かけし
     高橋は
 千代に
   わたれる
 名にこそ
  ありけれ
 
 偕楽園 彰考館 温泉 高橋 桜川
 
5     
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 緑ヶ岡
 
 題緑岡山荘
      儼塾
寂々松間遺世情
翠微風渡四時清
玲瓏多景画屏麗
瀲灔澄湖磨鏡明
鶴集洲前馴不去
鹿遊林外近無驚
翠岡本與民同楽
方酌金樽歌太平
 
 仏頂山 桜山 丸山 窈窕阪
 
明公苃憩地
不許蕪草侵
茶秀舊樓緑
清風永可欽
 手塚陽軒
 
茶園 曲直港 桜川古道
 
6     
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 撰ふいはゆる 君子林 漸入徑[又斯可/徑] 豊年池 曲直港
 髙平阜 十年園 君羹圃 大田 遺安壟 乳石岩 等
 なり今其所在詳かならす
 抑此岡は偕楽園と相對し佳景幽邃の地なり老松欝々
 として四面を圍繞し桜川の清流其南麓を廻り東南の
 間遠く開けて千湖の渺漫たるを望む西に顧みれは筑
 波葦尾の翠岱画くか如く又遥かに上野の諸山と相對
 すされは義公の此地に髙枕亭を設けさせられし頃屡
 文学の士を召して詩歌をもてあそび或時は古今盛衰
 の蹤を論じて之を當時に鑒み又或ときは早苗とる賎夫か
 手業の暇なきを見そなはして深く農を愍み数箇の
 公納の中七條の課役を免されしとなり其後寳永年
 
 間に至り此亭を毀ちて其跡をは畠に開き近きわ
 たりの農人に貸あたへられ僅の賦税を納め来りしか
 天保中偕楽園を開かれたるおり茶園と為し苗を
 山城國宇治よりうつされ培養年をへて精品多く出
 せりといふ[髙枕亭の承塵に掲けたる板額は松に鷹の高彫にし/て俗にいふ左り甚五郎の作なりといゝ傳えしか藩士小笠]
 [原某しに賜ひ取毀ちたる木材は/村上某にたまはりしとなり]
 
   緑岡              梅里
 緑之岡兮于占山荘松柏茂矣玉音鎗矣岡之緑矣
 松柏沃矣優之游之樂也足矣歳寒而后松獨秀矣
 君子居之何陋之有
 
   題落葉             仝
 秋老霜楓晩斜陽映錦茵追風飛彩蝶遶徑疊紅鱗
 
7     
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 林罅山排闥葉踈月作隣春花驚落木光景轉奔輪
     夤賡大君相公落葉髙韻題
     別業所見         吉弘元常
 斯可徑秋色野花織草茵葉零露林鹿雲漲隠溪鱗
 泉石自封境煙霞便比隣山中清事會緩歩代蹄輪
   季秋念日吉子常和予題落葉詩吟之翫之琅
   琅璨々於是再歩前韻以述緑岡雜興云
               梅里
 君子林中趣焼紅酌醉茵楓衰漁錦色松老起蒼鱗
 窻聚孫康雪溪尋杜甫隣蕭然茅店裏不羨美哉輪
     仝            寺井玄同
 陪遊仍酌酒寛厚免汙茵霜果樀頳卵芳厨膳素鱗
 
 林深留鹿伏山静與雲隣君子亭中樂皎兮月作輪
     仝            森尚謙
 春至花成錦秋深葉布茵關々洲上鳥潑々葦間鱗
 丘壑占多景松杉遶四隣吟回君子舎好駕小車輪
     翠岡即興         吉弘元常
 草荏苒樹蕭森酒腸浣清水詩思入碧岑風掃落葉
 斯可徑年々徳秀君子林
     和吉子常緑岡即興韻 梅里
 松鬱々竹森々前湛仙波水後聳雙尖岑易容滕安
 志也足來巣一枝鷦鷯林
     仝            板垣矩
 銀濤殷碧樹森風來揺千波雲破出孤岑詩人吟懐
 
8     
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緑岡の北丸山渕明堂を設けられしは弐
百餘年の昔にして今は其跡のみ存ぜり
 
 書柿葉四林忽成翰墨林
     仝            寺井玄洞
 湖瀲灔山欝森誅茅卜勝地洗枝納遥岑此日吟懐
 一番爽霜風髙吹落木林
     仝            森尚謙
 泉石麗松竹森梅秀懐湘水楓紅思楚岑髙枕亭中
 樂無極四時佳興滿園林
     松遐年友
 蒼髯欝々接雲岑晩翠含風戞玉音貞節不凋君子
 操千秋長愛歳寒心
     仝          梅里
 遐想植松弘景家知音千歳意増加夜來風度清心
 
9     
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水戸義公緑か岡の
山荘に文學の士を
集め古今を論じ
給ふ図
 
10     
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 耳傳枕鳴琴鼓伯牙
     仝            井上玄桐
 久伴青松日倚欄貞姿方作棟梁看従茲猶約十回
 色霜雪雖寒盟不寒
     仝            吉弘元常
 不作従時質與文老煙積翠日欣々舊盟須是比韓
 孟夭矯龍姿交碧雲
     仝            佐々宗淳
 一與青松結作隣神交久要老龍鱗爲憐凛々歳寒
 操羞見世間輕薄人
     仝            木下之幹
 堅心勁節舊相知翠蔭亭々霜後姿擇友爲嫌桃李
 
 俗忘年長對歳寒枝
 神崎八景小序
     翠岡蒼松         安積澹泊
 義公營別業於緑岡以爲遊息之地寺門相距一牛
 鳴青松萬株凌雪霜凛然流風遺韻至今猶存
 舜水文集
     高枕亭志
 水戸侯宰相上公、於都城之近郊、新築別館、茅茨土
 階、疎櫺越席、不欲殫民力以壮遊観、不欲極土木以
 開侈靡、不惟不欲而已也、兢々焉、實不敢出乎此、遂
 顔其亭曰髙枕、毎観省之勤勞、息馬蹄於是墅、及是
 時之間暇、察政刑於民風、恒思皓月當空、煙波静尽、
 
11     
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 緑か岡
 髙枕亭の舊趾
 
   西山公
遐想植松弘景家
知音千歳意増加
夜來風度清心耳
傳枕鳴琴鼓伯牙
 
 茶園 高枕亭の趾 窈窕坂
 
   省三
松か枝の緑か岡に
 住なれて
 千代を重ねん
  君かともつる
 
   至剛
若葉さす
 みとりか岡を
   渡るなり
 花はきのふの
  あとの
   朝風
 
 銀河寺 官林 桜川
 
12     
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 婦子寧止、百室阜盈、竹柏之影尽成荇藻、松枏之
 雅堪棟梁、美富中凾、非復遂荒之境、藩垣飾治、豈猶
 草昧之初、於是惠風和暢、對月勸酬、與二三臣工、叙
 徃事、説勤渠、闢閉塞、剪蓁蕪、鋤非種、植嘉禾、是穮是
 蔉、必有豊年、實穎實栗、以開家室、於是飲酒樂甚、陶
 然竟酔矣、下莞上簟、乃安直聲震於中外、側聞信義
 之著於今、五十餘年茲、乃化爲繞指耶、吾聞之天生
 民而立之君、將使其憂勞百姓也、豈使之安意肆志
 於臣民之上哉、余謝之曰、敬聞命矣、子之言然乎、然
 未達也、諒矣而非信也、夫髙枕者治定功成、慮周理
 淂、心曠神怡、而後爲者、非可一蹴而至也、世方掘泥
 揚波、而公之志獨潔、世方餔醩餟醨、而公之性不嗜
 
 酒、設使此邦之中有顛連而無告、四境之内有寃抑
 而莫伸者、公能偃然而髙枕乎、長道有未順、羣醜有
 未屈、克明其徳、未尽其所以詒孫翼子者、公能偃然
 而髙枕乎、無寧惟是公屬尊而近親、曲髙而和寡、設
 使廟堂之上、一徳之未孚、一事之失理、公雖欲偃然
 而髙枕、其可得乎、茲之所云志也而非事也、遠期之
 也、而非遂爲之也、子觀之跡象之粗而不諒夫制行
 之髙卑、攷諸説文之義而不徴其襟期之遠大、余故
 曰未達而未信也、客乃面熱汗顔、瞿然而覚曰、吾小
 人也哉、昧於道之腴而泥之膚革、是猶鳳凰軒翥於
 重霄、而吾謂其槍於枌楡籬落也、吾陋矣、而今而後
 請執鞭以事子、竊子之餘以淑吾身、而因懐以事吾
 
13     
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 君也、
     松遐年友            自息軒
 萬代のみとりをそへてときはなる蔭にそしめし松のした庵
                     忍穂利重
 うつし植し千年の山の姫小松君かよはひの友とこそ見め
                     稲津為誠
 誰も皆契る言葉の玉松やとしの緒長きさかへ見すえん
                     肥田行正
 いくかへり花咲春になれて見ん八千代を契るやとのまつかえ
                     安藤定輔
 君か代の久しき程は今年生の松のよはひにかけてこそ見め
 栗里九景
 
朱舜水西山公の聘に應
じて水戸の邸に至るの圖
 
14     
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     緑岡白雨            安藤為定
 ときは木のみとりか岡にゐる雲や夕立空のしるしなるらん
猩々橋 丸山の北小渡川の間に架したる棚橋を斯号く是
 は彼丸山に猩々亭[此亭の事一の/巻に載す]を営み給ひし時是に通へる
 路に當れるをもて橋の名に負せしとなり[小渡川は東茨/城郡常磐村の]
 [字小渡といへる地より発して此橋際/にて桜川と合し千波湖に落るなり]
藤棚 桜川の南壱町許田圃の中に在て四方に蔓延し
 開花の候には一竒観たりしか嘉永年間より追々に其根
 絶へて今は其趾だにとゝめす按ずるに此邊いにしへ藤ヶ崎
 といゝて仙湖七崎の中なる由されは其古名を存したま
 はんとて景山公の植継れしものなるべし[天保中丹頂の/隺一番ひを此地]
 [に飼はしめられしか其餌食を此藤棚/の下にてあたえられたる由言つたふ]
 
髙橋 桜川の下流千波湖の落合に架す本名を下常葉橋
 といへり[此橋より弐丁許をへたて西の方園下に添ふて板橋在り/是を上常葉橋といふ此二橋は天保中架せしめらるゝとなり]此所は國道
 の一にして水戸より東京への往還なり東へ壱町程ゆけは左り
 の方に常盤神社一の華表建り
彰考館文庫 同所北偕楽園の崖下に在り水戸義公曾て
 文學に志し渥く東武駒籠の別墅に文庫を設け和漢の
 書籍数萬巻を貯へ彰考館と号く又儒臣に命じて洽
 ねく天下の綺書を求め多く文学の士を徴す海内の碩儒
 翕然として此館に集るもの十有餘人各恩禄を給し編輯
 の事に與らしむ禮儀類典若干を撰ひて本朝大典の闕
 たるを補ひ大日本史を著はして
 皇統及ひ名臣の蹤を糺し世挙て我朝の正史と稱す寛文
 
15     
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常磐神社
 鎮靈社
兩公天下傑
祀典簇冠裳
遺芳流萬古
梅花不敢香
   元茂
 
元山町 本社 社務所 拜殿 神門 井 神楽殿 手水屋 津国屋
神供所 神馬 手水屋 雷神 常葉村 偕楽園 梅林 二鳥居 鎮霊社 清香庵
 
16     
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 中明の朱舜水埼陽に来るを聞て禮を厚ふしてこれを招き
 立て文學の師と為す摂の湊川楠廷尉の碑陰は師の撰文
 にして世の知る所なり其後文庫を水戸の城中に移し總
 裁一名学官数名を置て館中の事を司らしめ同く國史
 の編輯に與かる明治維新に當り藩を廃し城地皆官に
 納む故に官に請ふて再ひ文庫を此地に移すといふ
  彰考館の印 彰考館 [印面の篆字は水戸藩士/力石勘介の筆跡にして同/藩伴武平の刻なり]
常磐神社 偕楽園の東隣に在り境域東西七拾間南北百五拾
 間許其内千坪を社殿の境内とし官有に属す其餘は付属
 
 地にして舊藩有志者の寄附なり本社拜殿神楽殿神
 門神供所神馬手水屋等結構工みをつくせり其他燈
 籠高麗狗天水鉢繪馬及ひ境内中の樹木草花の類ひ
 衆人の獻備に係る元此地は偕楽園の一郭内にして都て
 梅林なりしを當社営建の擧ありしより豫め此地を卜し
 境内に定む抑當社は徳川光圀郷[水戸家第二代従三位権中/納言に任じ元録十三年十二月]
 [薨す義公と謚り名す明治二年/十二月特旨を以て従一位を贈らる]同く齊昭郷[水戸家第九代従三位権中/納言萬延元年八月十五日薨す明治]
 [二年十二月特旨を/以て従一位を贈る]の神靈を齊き祀れる所にして二公の國家に功績
 の著しきは江湖人よく知る所なりされは當國はさらにもいはす
  遠き國々の人迠も其偉徳を欽慕し更に官の御許をうけて
 各資財を擲ち新たに社殿を創建して常磐神社の號を
 賜はり明治六年三月廿七日懸社に列せらる同七年九月二柱
 
17     
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常磐神社
 五月十二日祭事
 
常磐神社に
 ぬかつきて
  福羽美静
天かした
 君かこゝろを
汲しはり
  さかゆく
御代と
 とく
  なりにけり
 
18     
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 の神號を賜ふ[義公 高譲味道根命/烈公 押健男国之御楯命]同十五年十二月別格官
 幣社に列し同十六年二月告祭式を行はるしかありし
 より神威益々著く衆庶渇仰大かたならす種々の品ど
 もたてまつり詣人常に絡繹として鈴の音神楽の響き
 絶る隙なく年中四度の祭事にして就中五月十二日を以
 て大祭を修行せらる此日は水戸市街及び近郷より躍
 家臺其外練物等思ひ/\に粧ひ造りて神前に供す遠
 近竸ひ集りて大ひに賑へり
鎮靈社 常磐神社神門より西の方に在り境内東西拾
 五間南北拾弐間許社壇は東に嚮ふ當社は水戸の士民
 國事に殉せし者を初め維新以来官軍に属し西南の役に戦没せし者
 の霊魂を鎮め祀れる所にして國中大に有志輩を募り官又
 
 之を補け明治十二年五月遂に特許を得て此地に社殿
 を造営す毎歳五月十三日をもつてこれを祀る
大鼓 常磐神社の神樂殿に備ふる大鼓は世に未曾有
 のものにして徑り四尺七寸五分胴の圍り一丈五尺五寸同く
 長サ六尺弐寸左右に銘文あり景山公の親筆なり面
 に丸龍の模様を畫く公曾て在國の頃武備を擴充
 せんため野外の演習ありしとき之を製して陣中に備
 へられしとなり[神楽殿の側らに据置るゝ大炮一門/も是又同時の製なる由云つたふ]
千波湖 東北は水戸上下市街に接し西南は常磐千
 波吉田三ヶ村の地に濱す東西凡そ弐拾五町五十間
 南北六町余あり然して此湖に會するもの僅に二流
 に過す一派は中妻領より出て常磐村に至り湖に注
 
19     
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千波湖
 
 栁堤春水
臨別誰攀折栁枝
傍曲塘輕煙篭鴨
緑細雨濕鵞黄鴬
擲踈還蜜鷺栖低
又昻麹塵相映處
魚隊幾爲群
   安積澹泊
 
 吉田社 藤柄 岩舩山 三魂崎 下市
 
 千波
岸さゆる
 千波の沼の
 薄らひに
 筑波おろしの
  風を見る
  かな
   至剛
 
 水戸城 宍くら 駒入さき 柳堤
 
20     
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 く是則ち桜川なり一派は同郡東野新田より発し千
 波村筑能崎に至りて此湖に入る之を逆川と云ふ又此
 湖水より三魂か岬を回り濱田の市街を經て伊奈堀に
 入り東流して同郡島田村にいたり涸沼の下流に合す又
 栁堤の水門より舊城外郭の濠に入り東流して轟橋の
 大堰に落ち士族弟地の間を東より北に轉じ細谷村
 嶋橋に至り那珂川に合流す古来より魚鳥の猟を
 禁ぜられしか明治十六年より更に御猟塲に定めらる
 又此湖中に産する蓴菜は味ひ殊に美にして人々これを
 賞せり凡そ此地の風景他に勝れ四時の眺めこゝに集る
 東は水田連りて遠く磯濱の松原を瞻み南は笠原吉田
 の杜に對ひて静波緑りを流し西は筑波芦穗の峰巒髙
 
 く聳へ北は大城巍々として松風の調べいと妙なり春
 は南地に花を尋ねて入會の鐘に帰路を促かし夏
 は孤舟に棹さして中流に風を待或ひは緑なす栁の
 陰に三伏の暑を忘るゝあり秋は遠近の山端の梢へを
 染る楓葉は湖上に錦を晒すかと疑はる就中中秋の
 月のゆふべはことさらにいわんかたなく又白妙の雪の
 旦は騒人墨客おの/\相携へて湖邊の閑亭に會し
 詩歌管絃の興を添ふるも尠なからす実に郊外第一の
 勝地にして水戸八景の冠たるべし水戸義公曾てこの
 湖を回りて八勝を置るいわゆる七面山秋月神崎
 寺晩鐘梅戸夕照下谷帰帆栁堤夜雨藤柄晴嵐
 葑田落雁緑岡暮雪等なり又天明年間迠は湖
 
21     
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 中夥しき蓮ありて開花の折は清香人の袂を襲ひ一時
 の竒観たりしか其後いつとなくその根絶へて今は残る
 もの稀になりぬ
七崎 古来より此湖をめぐりて七崎と称ふるものあり
 妙法崎[神嵜寺の/境内にあり] 梅戸崎[上市梅香/にあり] 駒入崎[上市柵町の/裏通りを云] 筑能
 崎[吉田村安蘇/の臺の邊] 庵崎[千波村逆川の/西の出崎をいふ] 栁か崎[千波村東京街道/の東の出崎をいふ] 藤
 が崎[常磐村偕楽園/の下通りをいへり]
八澤 是も古来よりの稱なり 鯉沢[吉田村清岩/寺の裏] 木沢茂沢
 [今二村合して/吉沢村といふ] 狐沢拂沢[二村とも今/吉田村に合す] 福沢[今千波村/に合す] 米沢[吉田村の/隣村なり]
 中沢[古町付村の字にして/今吉田村の地に入る]
 神崎八景小序
    千波涼月        安積澹泊
 
 積水長天湖光瀲灔東吸海氣西呑山嶽直北金城
 巍峨亘南林巒輻湊暑夜皎月漾波爽人肌骨
    仙波湖         森儼塾
 碧湖澄朗遶金湯四顧悠々雲水郷茂樹千林涵翠
 黛荷花十里吐芳芬蘇堤勝景吟情遠鑑院 観興
 味長拄杖栁隂頻俯仰沛然時雨益清涼
    泛仙波湖荷花遮舟
  丁丑孟秋九日泛舟千波進東入荷花之中萬薫
  稠密無由廻棹雖暫乘興甚苦難澁己而陵花間
  及晩登東岸聊賦詩
 秋湖澄朗浸青空菡萏玲瓏雜白紅隔菜難求前路
 處遮花無奈小舟中出泥卓尓思周子迷澤茫然惱
 
22     
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常磐神社
    東口一の華表
     鈴木重道
諸人の袖に
   しめたる
 梅か香の
   深きも神の
 めくみなるらん
 
 晉公更與篙師并力進斜陽初到栁堤東
 栗里九景
     蓮池の夏月          慈光寺中務太輔冬仲
  月清き汀の池の風の間に玉そかゝやく露のはちす葉
妙法崎 常磐神社境内より東南凡そ四町許を隔て真
 言宗神崎寺の境外に在り湖邉にさし出たる岡にして
 佳景の地なり往昔此處に古松一株ありて土俗亀甲松
 と云へり貞享四年の秋暴風の爲めに吹倒れたるが土人
 等その根を穿ちて銅製の經筒一箇を得たり中に抹香
 の如きもの満てり則ち之をとり除くに筒の裏に款文有
 りて長承二年と鐫す同寺の住僧宥賀師これを水戸
 義公に呈す公之を見て妙法の地名空しからさるを知り
 
23     
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常磐神社境外酒楼遊醼の図
 
 師及び衆僧に命じて法華經一部を寫さしめ又法華
 帰依の輩には各題目一遍を記さし釋迦の立像一體を
 彫刻して其胎中に籠彼古松ありし地に一宇を建立
 して件の像を安置し是を妙法教主殿といふ今廃す
    如法經筒記
 神崎寺在水戸城之西南、寺志散逸、無能詳其草創
 矣、寺前有大松樹、名其所曰妙法埼、不知其何義也、
 歳月之久、松樹枯朽、是歳丁夘之秋、土人鑿松根淂
 一銅器、供之住持宥賀、開蓋見之有如抹香者満中、
 乃傾出磨洗則裏面有款識三行、弟一行曰如法經、
 第二行曰長承二年、弟三行曰法主聖、宥賀竒之持
 以視余、々見其款識、雖非妙筆、字画竒古、足以悦目
 
24     
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天保十二
年辛丑冬
十一月
 
常磐神社の
神樂殿にそなへらるゝ大鼓は
天保中景山公の追鳥狩を
催されし折用ひられたるものにして
當時車臺に据付たる容を摸して此に出す
 
25     
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 焉、夫長承二年、在 崇徳帝之御宇、去今五百五十
 年矣、神崎之爲寺、不知其草創、而長承年中、有𢉉藏
 如法經之人、則當時既有伽藍也明、所謂妙法埼亦
 其義顕然、由之観之、款識足千歳之寺志也、因作凾
 藏之、并記由來以埀永世
  貞享四年歳次丁夘十月穀旦 常山
 右は經筒を納めたる箱の表に記されたるものにして義
 公の撰文なり今神崎寺の什器たり其図前に出す
妙法滝 妙法崎の東は断岸にして此に髙さ弐丈幅四
 尺ばかりの瀑布ありて頗る壮観なりしか近き年其源青
 川といへる渕の堤崩壊せしより水涸れ瀧も亦廃せり
 神崎八景小序
 
    妙法瀑布       安積澹泊
 巉巌壁立飛瀑倒瀉發源池水而流入于湖池水不
 涸不溢亦可觀造物者之大
神崎岩 青川の邉より湖水に沿ふて岩穴数箇所ありて
 切出す井筒あるひは竈よふのものを造りて水戸の市街
 又は近郷迠もひさきて産業とすされと其質柔かに
 して久しきに堪へす往年此所より石斧三箇を出せり俗
 に天狗の爪又龍の爪なといへり石斧を出せる地諸國に
 多し珍とするに足らす
梅戸崎 水戸上市下梅香といへる士族弟地の南裏にし
 て湖中にさし出たる地なり偕楽園より東に望める出崎
 にして往昔佐竹氏の族梅香齊と云し人此處に住せし
 
26     
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常磐神社大鼓の銘 五分五厘の一縮字文字彫下箔置
震天動地
起雲發風
 
三軍踊躍
進恩盡忠
 右前面胴の左りの方にあり胴總體木地臘塗
 
27     
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仝く胴の右の方にあり
天保十二
年辛丑冬
 
十一月
源朝臣齊昭字子信氏 文能附衆武能威敵 [印面八/寸三/分)]
 
28     
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 とそ故に此稱あり其後天和年間丹波の人安藤為実
 爲章とて同胞國学に聞へありしを水戸義公召出し
 て食禄を賜はり爲実に此地を賜ふ邸中多く栗樹
 を栽へて其居皆栗材を用ゆ義公其亭を命けて栗
 里と云ふ又其亭中より望む處の九景を撰ふそは次の
 文中に見へたり[梅香斎光重は八田知家の裔にして那珂郡八田に在り大掾氏ニ/属し江戸重通の為に追はる此地に住せし事いまた考へす]
 千年山集
     栗里九景の賦并序       藤原爲章
  もろこしの賦に古俳律文の四躰ありその説は文躰
  明辨につまひらかなり日本紀萬葉集よりはしめ代
  代の集に見へたる長歌を彼四躰にあてゝ論せは古
  賦の正躰といふへしすてに正躰といはゝ時ありて変
 
  せすんはあるべからす今や爲章彼文躰にならふ
  て長歌の変風を製すあへて自我作古と思へる
  にはあらす誠に一時の寓興にして騒壇の戯事の
  みいはゆる九景は梅戸春風蓮池夏月笠原秋落
  林罅冬嶺栁崎雪舟蘆洲双隺吉田神楽緑岡
  白雨
 栗里はわかこのかみの後園なりこの園に栗樹おほく
 其亭もまた栗材をもて造れるによりて我君是を名
 付させたまへりすてになつけたまひて後こゝより見渡
 さるゝ所々のけしき此園の四の時と共に九の題をえらひ
 たまはせしかは茅か軒端もはえ/\しう園の草木もお
 ほんめくみにうるほひて咲初る桜をかさすあしたはり
 
29     
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 妙法崎
處得て經讀
 鳥もほこるらん
   妙法崎の
春の此ころ
    戸牧久
 
神崎寺 丸山 青川 妙法滝 東京道
 
   妙法瀑布
瀑泉穿石落
池水入湖流
橋影隨波動
經聲入竹幽
白雲簷際宿
青靄座間浮
欲問瑜珈教
鶯啼楊栁洲
 安積澹泊
 
 教主殿
 
30     
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如法經筒
 總体銅製なり裡に如法經云々の文左り文字にうち
出したる如く見ゆるは表より打こみたるが現はれしも
のとおぼし但し表面は古く土中にありしをもて腐
朽し文字の形見へ難し
蓋 長一尺七分 
  徑四寸五分 囲一尺八寸
 
 山杜鵑月雪のゆふへの空のあはれをもひとつ籬に
 かきこめて芳野龍田もよそならすこゝはもとより
 梅か戸のかほりゆかしき名におひてたち枝をわたる
 春風の袂にあまるのとけさやいつしか夏に吹かへて
 蓮ひらける池のおものさゝなみきよき夕月夜涼き
 かけにやすらへはかへさわするゝ小夜更て霜おき
 まよふ笠原やあさちさひしき棹鹿の聲聞とき
 そ秋もはや杉の板戸に音つるゝしくれにそむる紅
 葉の林の罅もあらはにて眺めに近き筑波やま峰
 より落るみなの川こほりはてたる冬されは栁か崎
 に降る雪を現にしはらくにひらくてふ花かとたとる
 折しもあれたななし小舟さほさしてこくはたかねそ
 
31     
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 これやこのかの山蔭の清き夜に友許行し人なら
 しかゝるけしきを宿なからあくまてに窓のまへ流れ
 浮洲になく靏の芦間にあさるひとつかひ羽根を
 ならへて幾とせかすめるためしは唐くにゝ昔あるてふ
 いもとせの身を生なから此鳥にむまれをかへし類ひ
 にや水の南の宮はしらふとしきたてゝ跡たるゝ吉田の
 杜によろつとせ千歳とうたふこゑすなり神もい
 をいやそへて君か城居をまもるらし西に小髙きまつ
 竹の緑の岡にかせ立てひと村雨のすゝしきに千町の
 田面はる/\と稲葉の露のめくみある時に相あふ國つ
 民井をほりてのみ耕して竃賑ふあさなゆふな我も
 つとむる暇しあれはこの園にはらから遊ふ手すさひ
 
神崎岩
 
32     
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 や栗の木実をうゑつきてしけき林となりなんこ
 ろほひにはその富千戸候にひとしからんもしかし
 なから我君のたまものならすや
     梅戸春風           久我大納言通誠郷
   あらすともいかゝ中々朝戸あけの神にまつ吹かせの梅か香
得月亭 元禄中水戸藩士忍穗利重なる人今の梅巷に住
 せしか義公屡其亭に入りて眺望の妙なるを愛し淂月亭と
 命けらる利重夙に文雅を好み和歌に長せり當時文墨の士
 此亭に題する詩歌多し今略す
     得月亭記
 亭在千波之湄、以其近水而名、蓋取諸蘇鱗先得
 月之句焉、水戸城下風景之秀、鍾乎千波、従亭望
 
 焉、南接笠原、林木蓊欝、巌壑雄深、左爲吉田崇祠、
 儼然松杉冐霜而聳、東抵藤柄阪戸、周道如砥、田
 疇棊布、緇廬黄阪、連綿逶蛇、西面翠岡、我人君相
 公別墅在茲、萬松蒼々群立排行者、所謂君子林
 也、林下幽邃如線者、斯可徑也、四圍蕭森、茅茨隠
 顯樹間者、銀濤亭也、髙枕亭也、西南遐眺雙巘素
 毳緑陰如雲如玉柱者、筑波峰也、此其大畧、而言
 其最美者、則千波也、其沼方七八里、荷葉嬋娟、紅
 白陸續、如織如組、方其隆也瞻之如無水波、就之
 如過簷蔔、浄露走珠、涼風獻香、葦汀蓼灣、出没其
 間、其出者爲崎有七、所謂神崎栁崎小松崎等是
 也、風鴛雨鴨、來集來游、菱花開而錦鱗躍、蒲葉飜
 
33     
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 而青蜓飛、野航横斜、簑笠浮水、々天色空、萬頃寸
 眸、最冝月夜、大君愛之曰、千波一鏡絶竒矣、今在
 吾人、視而怡焉、聽而樂焉、惟忍穗子不止如此、忍
 穗子名某亭之主人也、参政之暇、退憇于亭、時明
 月懸天、皎々瑩々、心清慮澄、於是仰思晦明之義、
 克察出入之度、乃知升降之變、預測盈虧之時、遠
 詳古今之䡄、深究隂陽之故、觀之于天、質之于物、
 皆求於我方寸之中、以省于我本然之靈、則其鑑
 誡明而亭之所得酷多、豈啻月哉、况月四時所常
 得、非若花雪必有節候也、偸閑樂時、來而飲此、飲
 而盡惟、其遊不亦適乎、若不然、與徒爲般衍怠敖
 之具、妄供歓笑者何殊、予曾遊此亭、粗陳前義、今
 
 歳使予爲記、冀主人得于斯言、
   題忍穗氏得月亭    西山公
 月依亭以好亭得月而名雨霽呉牛喘星稀魏鵲驚
 清光竹瑣碎疎影梅縦横蹈雪々無跡聴氷々有聲
 林明看白羽弓掛射青晴長伴三人友樂且結酒盟
   淂月亭にて        肥田行正
 もみち葉の色こき庭のおもかけを水の鏡にうつしてそみる
   再遊淂月亭用肥田子和歌末字卒賦所見
                吉弘元常
 多情勧酔思欄干山色水容盟不寒濯錦千波斜日
 影楓林并作蜀江看
栁堤 水戸上市より下市への通路にして長凡拾四町幅三
 
34     
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梅戸崎
 
 梅戸崎 神崎 下谷 新道
 
千年山集
栗里九景
   久我通誠卿
 梅戸春風
あかすともいかゝ
  なか/\朝戸明の
  袖にまつ吹
   かせの梅か香
 
常磐山外仙湖北
地喚梅香不見梅
只有佳名千歳在
詩人尚着筆花來
   向阪氏和
 
 妙法崎 常磐神社 好文亭 寺橋 桜山 丸山 藤ケ崎 緑ケ岡 千波湖
 
35     
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 間半板橋三箇所に架す慶安四年辛夘湖中を埋め是を築
 く故に新道と呼へり其後元禄三年庚午堤の左右に栁楓
 の類ひ数百株を植させられ行人暑を避るの便りとす依て
 栁堤ともいへり爾来枝葉茂りて緑色深く其景色の妙な
 る彼西湖蘓堤の趣きにも譲すといふべし
   栁堤春水         安積澹泊
 臨別誰攀折栁枝傍曲塘輕烔籠鴨緑細雨濕鵞黄
 鴬擲踈還密鷺栖低又昂麹塵相映處魚隊幾爲行
三魂ヶ崎 下市七軒町竈神社の舊境内にして今濱田村に屬
 すさゝやかなる杜にして西南は湖水に枕み又東にめくりて七軒
 [町/と]紺屋町の際に架せる魂消橋に至る是千波湖より伊奈堀へ
 通する水脈にして流末は涸沼の下流に合す此地は彼偕楽園よ
 
 り平臨する湖水の東岸に在て目標とする處なり[竃神社は水/戸七社の一]
 [員にして元水戸城の外郭に在り今其所を宍倉といへり寛永三年下市赤沼/町にうつし元録三年又今の七軒町に遷されしとなり祭神は奥津彦中御名方]
 [奥津姫の三座にして世に是を三宝荒神と称す毎歳六月十六日より同く十/九日まて出社ありて市中の賑ひ大方ならす]
魂消橋 紺屋町と七軒町の間伊奈堀の上流に架す長拾弐間幅三
 間慶長七年伊奈備前守奉行として千波湖を疏通して茨城郡
 大野郷弐拾ケ村餘の用水とす同年初めて此橋を架させられ魂
 消橋と命く按ずるに開元遺事に
  長安東覇陵有橋、來迎去送至此橋、爲離別之地、
  故人呼之銷魂橋也、云々
 此地も水戸の市端にして上途の客を送るもの多くは此橋にして
 袂を別つされは前文の古事に擬へ斯は名付られしならん歟
藤柄 今藤柄町といふ陸前濱街道にして東京より三陸への往還なり
 
36     
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 題千波湖
水遶金城鏡
面濃不知何
處寄塵容雨
竒晴好坡翁
在日暮風回
舩上松
   一松
 
 吉田の杜 吉田村 藤柄 中の橋 千波湖
 
 栁堤
    小林至剛
糸たるゝ栁堤の
 なかき日は
 風のゆきゝも
  いそかさり
      鳬
栁堤
 
三魂ケ嵜 下市 磯濱並木 水門 末の橋 駒入嵜
 
37     
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 此所は古くより奥羽の官道にして並木の松の枯槁したる其
 根のみ近来まて残りしか中には圍み弐丈許もあらんと覚
 しきもありし西北は千波湖及び水戸城を望み風景最も好し
 里諺に日本武尊東夷を鎮め凱旋の日今の朝日山の麓
 に着舩ありし時ありおふ藤葛をもて御舩を繋きとめられ
 たるより此称起れりと蓋し附會の説なるべし
吉田の杜 一に朝日山といふ東に向ひたる岡にして常に旭日をう
 くるゆへに尓稱ふとなり吉田神社の境内にして吉田村の地
 に属す當社は延喜式神名帳に載する所の常陸國那珂
 郡吉田神社是なり[今茨城郡に入る古来沿革の圖を考ふるに今の/茨城郡の地半ばは那珂郡にして當社も同郡]
 [中にありし/事明し]創立の年月詳かならす今神庫に傳ふる處正安の
 文書に據て考ふるに人皇廿一代 安康天皇より同廿六代
 
 武烈天皇兩朝の間にあり[九十二代後伏見帝正安四年己亥の文書に/當社勧請以来八百餘歳云々と見えたり]
 祭神日本武尊にして文徳実録及び三代実録等に神階
を進められし事往々見へたり又
  神樂記曰武尊奉 勅東征焉、駿河之夷賊欺武
  尊之時、因草薙之宝劔之威徳、遁其難、盡平伏、而
  經歴相摸上總下總常陸、過於鹿島神宮、入御于
  當宮、揚錦幢於朝日山三角山、奉崇吉田大明神、
  以來靈騒殊新、云々
 右の文に據て當社を尊の遺跡なりと云つたへたるにや日本
 紀 景行の巻に蝦夷既に平きて西南常陸を經て甲斐
 國酒折宮に到り「にいまりつくはをこへていくよかねつる」の
 咏ありし事見へたりされは當國を過きて西上給ひし事は
 
38     
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藤柄並木
  三魂崎
煙波無限興
月白風清村
昔有三仙客
騒思各断魂
 小林元茂
 
 常光寺郭 三魂嵜 竃神社 水戸城
 
   戸村義暢
そのかみの
み舟をつなく
   藤かつら
松の
 やちよの
 名にかゝりけむ
   戸牧久
藤からの松に
 かゝりて
   出る也
神崎
 てらす
 朝日子の影
   小林至剛
根芹つむ神崎
   かけて
藤からの
 松をこめたる
  朝かすみかな
 
 柳堤 常葉山 東照宮 梅戸崎 上市 千波湖
 
39     
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 疑なし總て關東尊の遺蹟と称ふる地所々に多し當社は式
 内の大社にして創立以降すてに千有餘年の久しを經れは果
 して其遺跡たるや知るへからす毎歳九月十五日をもつて之を祀
 る[當社二の華表の額に第三の宮とあるは 正親町帝の皇子誠仁親王/の親翰なり後陽成帝の朝天正中陽光帝と追号し奉る和尓雅に]
 [常陸の三社といへるは鹿島神社大洗磯前神社静神社とありて當社/は見へす一説に吉田神社笠原神社阪戸神社を合せて水戸三社といふと]
 [なり又笠原神社阪戸神社竃神社國見神社早歳神社/新飯神社水戸神社之を水戸七社と称し吉田の摂社とす]
 栗里九景
     吉田神楽           高盛法眼
 みやこにもかはらぬひなの里神楽名さへ吉田の榊葉のこゑ
笠原山 笠原新田に在り吉田の杜の西八町許にして今
 一等官林となる松杉鬱蒼として林位當郡に冠たり山
 頂水神を祠る石階の左右に清泉涌出し東流して下市
 
 の用水となる寛文年中下總の人平賀勘衛門保秀関
 流の算術に長じ兼て水理に精しきをもて水戸に召て
 禄を賜ふ時に濱田の市坊飲料に乏しく毎戸これを患
 ふ依て保秀に命じ暗樋を爲り此泉を市街に通じ初め
 て用水の便を得たり今の笠原水道是なり文化年間水
 戸哀公浴德泉と名付景山公その三大字を書し藤田一
 正又これか記を作り石に鐫て笠原の水源に建らる碑今
 現存す抑此地は水戸の市街を距ること弐拾餘町にして
 幽邃の地たり社前石階の下には逆川の流れを帯ひ松楓
 枝を交へて濃陰喬く石上苔滑かにして人跡稀なり花を
 尋ね紅葉を愛る輩は多く此地をもて第一とす就中夏日
 炎暑の候には衆人此に来りて涼を納れ水を掬ぶ常に
 
40     
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消魂橋
 
水道樋
 
 騒人の詞藻をのぶるに足れり
笠原水源 社前石階の右の方にあり崖の中段より湧いて筧
 を設けて水をうけ唐銅にて造りたる龍の口より吐出して直ちに
 暗樋に入り千波湖の南岸を東に回り濱田の市坊に通ぜり
浴德泉の碑 同所逆川の西岸にあり自然石にして縦三尺八
 寸一分横四尺六寸石質堅牢にして黒色なり加藤堅安なる
 人の發起にして文政九年の建置なり藤田幽谷子の撰文にし
 て宇留野弘の書なり[幽谷子俗称次郎左衛門といふ/東湖の父にして水戸の儒臣たり]浴德
 泉の題字は景山公の親筆にして幽谷子に賜ふ所なり
 浴德泉記
 浴德泉者、其源出于水戸城南吉田郷笠原不動坂
 下、有銅龍受其瀑水、々自龍口吐、坂之左右有泉四
 
41     
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朝日山
 吉田神社
 
 小林元茂
肅穆神祠古
威靈千歳埀
跛興兼眇視
禱客竸奔馳
 
   高盛法眼
都にもかはらぬ
 ひなのさと
      神楽
名さへよし田の
    榊葉の
       こゑ
 
42     
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 穴、匯而會於一、爲匿溝而導之、水由地中行、逶迤東
 北暗流、徧于城東十街之市、所在爲井可用汲、萬口
 之民、朝夕資以飲食焉、昔我先君威公、始封水戸、水
 戸之爲地、南抱仙湖、北踞珂江、左濱田右常磐。其地
 勢西髙而東下、寛永中大修郛郭、増廣規制、廼塡濱
 田之田、以開廛里、徙商賈之民在城西者以實焉、謂
 之田町、民無遠近願藏其市者日衆、紅塵四合、烟火
 比屋、而獨患土薄水獨其味苦悪不可以飲、或嘗謀
 引吉田之池水以甘民食、而所及不廣、及義公襲封、
 考遺訓、咨故實、大行仁政、寛文三年始就國、命爲新
 井、時有下總人平賀保秀者、通天文地理之學、威公
 聘之、未及命職而薨、於是使保秀専掌其工役、乃相
 
 笠原之地有冽寒泉、甘如醴、䟽鑿以利其水道、其導
 之善因地勢審曲直、量高低、大要傍林、簿蓊欝、而爲
 隂溝其下、故水氣常潤、旱歳不涸、或以石爲甃、或以
 木爲楲、謹其蓋藏、通其壅塞、故不使濁流汚穢入焉、
 至紺屋七間兩街之間跨仙波湖下流之處、則特設
 銅匱以架之、如棟之隆、長六丈有六尺、蓋泉水發源
 笠原、東過米澤、折而北、又轉而東、至藤柄、東北至紺
 屋街、踰七軒街、又東北流、自第一街歴第十街、至新
 町而止、其水道凡三千七百九十有五歩、而厮流旁
 出則不與焉、用夫二萬六千人、費金僅五百五十餘
 兩、而工役告成、蓋所謂因民之所利而利之、惠而不
 費者也歟、其後公屢至笠原観其泉、々左爲漱石所、
 
43     
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千波原操練
 
 題春蒐圖
   手塚陽軒
田獵遠追源將遊
刺豬誰是四郎儔
一従盛事喧天下
無復人稱不二蒐
 
44     
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     戸牧久
鳥狩せし
 むかしの跡の
 旗すゝき
  千波か原に
 なひく
   秋哉
 
45     
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漱石所に商人
を招き酒食を
賜ふ圖
 
46     
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 時或小隊出游、觴咏其側、人或有請伐笠原之木以
 開新田者、公慮其害水源不許、百年之後其言莫不
 皆驗、嗚呼仁君之澤遠矣、東市父老謹守其故迹、至
 今猶能道其詳、而加藤堅安者最好事、愛文雅、欲記
 其来由勒石以傳久遠、享和中嘗與衆謀、因司市之
 吏以請、既蒙兪允、記事文不獲所拕、是以不果、一日
 請之藤田一正曰、小人磨襲貞石、以待者二十餘年、
 願先生有記、一正曰諾哉、然斯泉無名、不可不命、汝
 姑待之、既而我納言公聞之、爲賦七言近體詩、公未
 嘗就國親至其地、而詩中能盡曲折、有如今猶浴先
 君徳之句、因賜名曰浴德泉、公之貴介弟景山公子、
 爲書浴德泉三大字、以授一正、俾獲刻之題額、一正
 
 嘗聞之故老、笠原之泉、舟翁所導、而義公實使之、舟
 翁即保秀之号也、保秀以覊旅之臣、議用有功、父子
 相継、擢牧民之職、能盡地力、食録五百石、邦人稱爲
 古今良宰第一、則斯泉也呼爲舟翁泉、亦不爲不可、
 雖然非義公之能用其材、則使舟翁有神禹之智、安
 能底其績哉、今公之賜名、特歸美于先君之德、爲得
 體、而其文采風流使斯泉生光輝、蓋亦義公之餘烈
 矣、今公之明、上下受福、固莫有井渫不食之患、伹恨
 襲封之後、未有就國之命、他日就國、大修威義之政、
 膏澤之降、浹洽於民心、則其勒石埀不朽者、寧獨浴
 德之泉云乎哉、一正雖老矣、職在文史、執筆以竢、文
 政九年、歳在丙戌夏五月
 
47     
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浴德泉
 
浴德泉
 
しけりあふ
  笠原山の
   下露は
 もらぬ
  時雨の
   あめに
    まされり
     戸牧久
 
48     
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         彰考館國史總裁藤田一正記
逆川東茨城郡東野新田の池水より発し笠原新田にて
 同處官林の東を屈曲して北に流れ千波村の地先田
 畝の間を経て千波湖に落るなり水浅くして舟行なし
漱石所の跡 浴德泉碑石の邉をいふ天和年間の頃とかや此
 處に茶亭を設け漱石所と名付游息の地とせらる水戸義公
 在國の折にはしは/\此所に逍遥せられ曲水の晏なと催され
 又府下の豪商をめし集めて酒肴を賜はりし事もありし
 とそ其頃此亭の禁條を示さる
    漱石所規約
  一禁不動堂上食肉乱行
  一禁漁釣前池
 
  一禁携美味旨酒耽逸樂及夜隂
  一禁坐論先後竸争便地而至喧囂
  一禁此泉之流盥漱投葷肉唯浮觴浸瓜菓不在
   此限  天和三年癸亥之夏
 [常山/文集]夏日斿玖離珂羅山銀河寺林中即興淂池字
 懐嘗遊此地一夢十周朞不動威嚴矣輕雷聲殷其
 雨晴炎暑退風快積雲披漱石堅人歯臨流洗我詩
 飛泉清遶座傾海酔揚巵瀉下銀河水漚涼無熱地
 儼塾集
 翠崖竒絶處泉落響琅然一漱靈根清令人得地僊
 神埼八景小序         安積澹泊
 樵唱牧笛聞南岸倚門而望則風霜揺落之紅楓曝
 
49     
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 錦是笠原之勝景也
 栗里九景
    笠原秋鹿           清水谷大納言實業郷
  もみち葉の雨とふるなり笠原にかくれかねてや牡鹿なくらむ
千波原 東茨城郡千波村に属す東西凡拾町南北六七町
 許の平原にして三方すへて山林に連り西の方は濱街道
 に接す此地は水戸城を距る事弐拾餘町にして千波湖
 の南岸にあり景山源公世を継給ひしより 王室を
 尊み藩屏の任を重んじ天下非常の用に供せんか爲専ら
 武枝を擴張し當時郭内に弘道館を設け各その師を
 撰ひ國中の士民をして教導奨励し給ひしかは列藩その風
 に傚ふて来ておしえを受る者多し公豫め此地を相し人
 
 馬操練に便なるをもて遂に追鳥狩の挙あり其作法皆
 古えに徴し行装善美を尽ざるはなし今に於て公の政
 蹟をあぐる一の美談とはなれり
曲水の宴 天保十三寅の彌生半は景山公偕楽園に逍遥
 せられし頃府下の文才ある輩をあまた召集へ園の西な
 る狭渡川に臨み彼蘭亭の故き例しに傚ひ觴を浮へて
 終日詩歌の興を添られしとなり是は徃し寛文の初め西
 山公の緑か岡に髙枕亭を設けさせ給ひし時此所に於て
 曲水の宴を催ふされたる昔しを懐ひ出られ斯はものせ
 られけるにや
養老會 同年九月下旬公好文亭に坐して領中の貴賤
 甲乙を問はず齢髙き男女を召寄詩に歌に或ひは書画
 
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下に出せる画賛は景山公
の親筆にして藩士某に賜は
りしものとて今其家に傳ふ
是追鳥狩ありし時の口
すさみなり又同し頃兜
の鉢に鐫付られける歌
今日もまた桜
 かさせる武士の
 散るとて香をは
 残さゝらめや
 
つつつつと つらねうつつつ つつつつの つつつつことに おとよはりけり
 
 の類ひ其所好随意書つらねたてまつらせ色よき絹ども
 夥た賜はりし是将古き例しを引れたるとかや其後公の薨
 逝給ひてより富宮大夫人の文久二年の冬再ひ此亭中にて
 七旬に餘れる老翁老媼幾人かめしあつめ物とらせ給ひ
 ける其時の事実は吉田令世か養老の記青山延光か序に
 詳かに見へたり
  養老集叙           青山延光
  天保壬寅、秋九月廿五日、我納言公命會國中老
  人於偕樂園、士則八十以上、庶人則九十以上、無
  男女皆來集矣、公爲之設宴、親起行酒、賜之以衣、
  命其有文藝者、各奏其技、一座感泣而退、公命近
  臣、輯其詩歌書畫爲一巻、命臣延光叙之、臣聞昔
 
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雅宴都兪暇
明良共玉觥
潺湲足相悦
自是角招聲
 手塚陽軒
 
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  者關東之俗、不知尚歯、先君義公實初壽中山楓
  軒人見卜幽、繇此國俗知尚歯、今公能継其遺志
  於百餘年之後、酌金罍介眉壽、尚歯之教固將被
  於士林、即田夫野老拜賜而歸鄰里、聚觀駢肩接
  迹、嘖々嗟歎、必指其人曰、此吾君所重也、廼相率
  敬之、自今而後、頒白之老、庶幾乎不負戴於道路
  矣、是爲叙、
  養老の記
  あさみとりかすめる虚に聲長閑なる雲雀のあ
  かれりし代の哥においぬとてなとか我身をせめき
  けむおいすはけふにあはましものか年たけてまたこゆ
  へしと思ひきや命なりけり佐邪の中山とよめるは
 
書畫會
 
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  いつれも齢高く命なからへたるをよろこへる哥なり又
  おい人を養はせ給ふことはかれの日いる國はさらなり
  これの日出る國にもそのためしなむ有けるさるはわ
  かくをさなき者の年高きにまめ/\しくつかふる道
  を教へ給はむの大御まつりことにこそはありけらし
  こゝに天保十三といふとし我か水戸の大城しら
  せ給ふ君のめてたき御名を世にとほ長く傳へ給はむ其
  長月の廿日餘り五日といふに千速振神崎なる民と
  ともにたぬしふといへる園の文このむいへといふなる處に
  つかうまつり人は梓弓やそちよりたみあき人は国たらす
  こゝのそちよりかこつかたなるおい人をくぬちこと/\めしつ
  とへて御手つからみき給はり寒さいとふへくてうるは
 
  しきうはおそひの衣をなむ給はせけるそれか中に
  哥よみ物かくわさ知れる者には紙ふて給はせて
  おのかしゝつかうまつらせ給ひきいてやよに齢高き
  はかりたふときものはあらしつかうまつり人はかたしけ
  なき仰ことかゝふるをりもこそ有へきにあやしの
  民商人なとの大荒木のもりの下草駒もすさめす
  老くちたるものゝ御あたりちかくはらはひ出て筑波山
  のしけき御蔭とかくことなら御うつくしみにあへる事
  は誠においすはけふにあはましものかは命なりけりと
  その子今まこまてもいかておろそかには思ひつかへむ
  いとたふとくありかたきわさになむあるかくてその
  よみもしかきもしつるをちひさやかにしゝめうつして
 
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  とち巻とせさせ給へるはよろつなほさりにおほし
  給はぬ御心ふかさなるへくこそおほせことのまに/\
  吉田令世かしこみてしるす
 天保十三年壬寅九月廿五日の養老會には八十歳より百
 歳迠八十五人文久二年壬戌十月十八日の會には八十歳ゟ
 九十五歳まて八十六人なりしといふ又明治十二年の秋舊
 藩士西宮宣明子か古例に傚ひて己か友がき幾人か上市
 垂楊亭といへる酒楼に招き集めて尚歯の會を開かれたる
 其折の紀とて 皇國にて壽筵を催されし古来よりの
 例しを幾行か書載せてつはらにものせられたるを贈され
 しまゝ因みにこゝに載す
   垂楊亭新室尚歯會記
 
 高き齢ひをたふとふまとひは 清和の帝の御代貞
 観十あまり八年の春弥生に南渕の大納言の初めて
 行はれしより安和二年のはる弥生の中の頃粟田の左り
 のおとゝまた大納言にておはしける時更にむかしの跡にな
 らひて七人の老翁を集へておのも/\身の老たるすしを
 ことあけする會をなんせられける是等は専らから歌に
 こゝろをやるをむねとせられし事は文時三位の序にて知
 られさてはるかに年を經て承安二年のやよひに藤原
 清輔朝臣か古き例しを追て其事を行はれけるかまた
 いく程もなく養和二年のはる加茂の重保神主おなし
 跡をとめて長き短きをいはす齢優れるをあかめ傳
 くむねとせられたりし夫より久しき年をへて寛文
 
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 七とせの春我西山の君吾嬬の風習老を尚ふ事を知
 らすとて古例のまゝに屡賀筵ひらかれまた近くは景山
 の君先公の御跡を慕ひまして養老會をそおこなは
 れたりける茲に明治十餘り二とせの文月廿七日垂楊亭
 のあるしか新室をつくりてそのみつかひするに七十以上の
 翁にして漢大和の歌をよくし書畫のわさを兼たる人
 を集へてさらに宴の筵を開きたるは七人の尚歯に似つ
 かはしきわさともいふへしかれ其因みに景山の君かあそは
 されし例しによりて以文會友といふ額をかゝけていま
 より後もみやひ人のつとひ游はん處としたるはいとおむ
 かしきわさなりけりおのれ思はすも今日の老人の数に列
 らなりしまに/\後の思出草にとてすなわち燈のもと
 
 にて短夜のみしかき筆をとりておほつかなき老か眼
 おし拭ひつゝかたのことくしるし出たるは西宮宣明と
 いふ翁になんありける
楽壽會 巻首に説る如く去る明治六年の冬 官廷
 の允許を淂て偕楽園を公園と定められしおり辱く
 も内務省より若干の金を下し給はり園中修補の料
 に充らる是景山源公の昔年國家に勲労ありし事
 を思し出されその遺蹟を永世不朽に傳へ給はんとの
 叡慮に出るものにして國中の士民昔し舊主の恩に浴
 し今又 朝恩の渥きを仰き誰か感泣せざらんや同く
 十六年縣廳の職員又能脇力して各俸給の幾分を出
 して年分の費用を資く則ち是を楽寿會と名づけ
 
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 春秋両度[四月/十月]好文亭に集合して宴を開くを例とす今茲
 三月更に其規約を定め縣下の人民甲乙を問はす新たに
 會員に加入するを許さる而して各自出す處の會費殊
 に僅少なりと雖も 朝恩の渥きと公の德輝の著明
 なるを親く衆人に示されんとの計畫より出るなるへし
 抑此會塲に臨みては素より髙卑貴賤の別なく皆その
 圓座に列りておのかしゝ或ひは詩哥俳諧又は書画茶の
 湯の類ひを弄ひ専ら風流のみを旨とせられしより席上
 もつとも蕭然にて彼酒狂放逸の挙動なくおのつから閑
 雅清興を極むこれ公の芳蹟を今日につたへ此會を催
 されしは公か昔日の楽みに譲らすといふへし
書畫會 明治十一年の春の頃舊藩士西宮宣明名越一庵松
 
 平雪山相川益齊小河逸齊の諸子昔時景山公好文亭
 に藩士の齢七旬に餘れる人々を召集めて各其嗜める道
 に隨ひて詩歌書画の類ひを書しめ給ひ公また親ら筆
 を採て其上に題し終日風雅の興を添へられし昔を欽
 慕し官廳の允許を淂て同好の士を招請し同年四月
 初めて偕楽園に此雅會を開きしより遠近聞傳へ語りつ
 たへて来観するもの多く毎歳春秋弐季[四月/九月]かならす
 是を催ふさるゝ事にはなりし
 
常磐公園攬勝圖誌下巻終
 
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明治十八年十一月七日印刷
仝年十二月二日出版
              水戸市大字上市
              奈良屋町廿五番地
       編集人       松平俊雄
              仝市大字上市
              大工町十七番地
       印刷人       北澤清三郎
       水戸市役所藏版
 
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