水戸の町は、水戸藩三十五万石の城下町であったため、〝御町〟と呼ばれた。その外形は、防御のためもあって北に那珂川、南に桜川や千波湖のある丘陵地帯が選ばれたことから、南北方向には発展せず、東西方向に拡がった。すなわち、城郭を中心に西側に展開する台地上の上町と東側の低地に開かれた下町の双子町として形成された。
上町と下町とは、地形上だけの区別ではなく、城郭に出入する桜川に面した南の柵町門と、那珂川に面した北の杉山門とによって区分されるなど、日常生活や行政上の差もあった。
上町全体の形態は、城郭の東部を扇のカナメとし、西側の大工町から馬口労町に走る堀(現在の栄町通り)を扇端とした扇子の形になっている。そこにあった町並みは、堀により内町と外町に区別され、その内部は南北に走る元白銀町前堀(現在の県庁前堀)と南町と泉町間にあった紀州堀によって、大きく三地域に分けられる。この三地域が、東西に走る二本の道路、金町と馬口労町間の道路と南町から泉町・向井町間の道路によって細分され、九つの地区に分けられる。城郭に最も近い三ノ丸地域は、これら道路によって北三ノ丸・中三ノ丸・南三ノ丸となり、天保時代になって弘道館が設置されるまでは重臣の屋敷地帯であった。紀州堀以東は、田見小路地区・大町地区・南町地区に分けられ、比較的上級の武家屋敷となっていた。この堀以西地域は、上・下金町地区と五軒町地区・泉町大工町地区となり、中央の五軒町地区が武家屋敷とされた以外は、武家の消費生活を維持するための町人町であった。
明治42年の水戸城趾
水戸の城下割
明治初期の水戸城(茨城100年写真集より)
なお、城下町の発展に伴う人口の増加により、現在栄町通りとなっている堀の西側に、新しい町が形成された。この地域は紀州堀以西地域の延長であって、町人町として始まった馬口労町通りと向井町通りの間の武家屋敷としての新屋敷地区であった。この地は、寛文六年(一六六六)に水戸藩附家老の中山備前守が家臣の居住地として開発したが、その後はしばらく農地となっていた。天保の改革で、武士土着論にしたがい江戸詰め家臣が水戸に移されたとき、その屋敷地として再び開発されたため新屋敷と呼ばれた。
下町地域は、桜川が外堀用に改修されて馬場川と呼ばれ、内郭と外郭の境界にされた。この川の東側と西側は一般には中流武家の屋敷とされたが、南側は備前堀との間に江戸街道と岩城街道が本四町目を中心に整備され、本町通りと呼ばれた町人町が形成されていた。この町並みは、道路が軍事上の問題から防御に有利で、侵入者には不利なように筋違いやカギの手状にして、見通しが出来ないように作られていた。