[[城下の人口]]

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 城下の人口については、政策的なものがあったのか武家の人口は適切な統計がなく、正しくはつかめない。ただ、城下図などによって屋敷の数が知られるため、ある程度は推定できる。このとき注意すべきことは、武士身分の者でも屋敷を持たず組屋敷や役屋敷の長屋などに居住する者、また町方に借家する者があることである。すなわち、屋敷の数から推定する武士身分の数は、城下町居住侍の全体数ではないことである。ともかく各時代の地図によると、寛文年間には上町に三三〇戸、下町に二二七戸で計五五七戸あり、元禄時代には上町に五五七戸、下町に二七六戸あり、城下には八三三戸あった。これが寛政九年(一七九七)になると上町で五三八戸、下町で三三七戸となり、計八七五戸である。天保時代になると、上町に五〇〇戸、下町に二八二戸と減少して総数で七八二戸となっている。武家人口については、明治四年(一八七一)の廃藩置県時に士族が一万二〇二六人、卒族が一万一六四六人で、合わせて二万三六七二人だったという。しかしこれは、水戸藩全体の数であって、江戸在住と水戸在住の合計数であり、江戸時代の城下居住の数を表現するものではない。
 町方の人口は、領内商・工業の統制や諸町役の徴収の関係もあって、調査され人別帳も作成されている。その総人口数は「町方の人口表」の通りである。天保四年(一八三三)には、戸口調査書上げより推計すると人別記載人口は七千余人と見られる。これに奉公や行商などによる一時的居住者が約二千人程度は居たと思われるので、町方には常に一万人前後の人口があったことになる。

明治中期の水戸城(水戸市案内より)


町方の人口表
年号人口
元禄15年(1702)12,964
享保11年(1726)10,991
明和5年(1768)8,385
天明3年(1783)7,834
寛政6年(1794)7,384


水戸市の航空写真(昭和53年10月撮影)


 明治になって禄を失った士族の中には、生計を維持するために各地に転出する者があった。特別な産業や行政組織もなかった水戸では、そのような士族の転出は多かったと思われるが、その数は不明である。そうした動きも安定した明治二十二年(一八八九)の市制施行時、水戸の人口は二万五五九一人だった。このようなことから推定すると、江戸時代の水戸の人口は三万人前後ではなかっただろうか。