[[城下町の行政]]

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 城下町の行政は、時代によっても異なるが天保のころには上町と下町に、地方二百石から三百石取りで役料五十石を拝領した町奉行が一人ずついた。その下には町与力が二人、書記役の口書一人、内物書が四人、犯罪取締りの町同心が一八人から二〇人程いた。役屋敷は上町分が西町にあり、下町が根積町にあった。以上の藩の機構下に、町人は町会所を設け、町年寄や町名主を選出して町政を維持した。上町の町会所の場所は、下金町や泉町三町目、鉄炮町などと変わり、町年寄も三、四人いた。天保元年は上金町の塙茂次衛門と小林弥市、向井町の軍司太郎次であった。下町の町会所は、城下の町頭であった本一町目にあったが、のちに七軒町に移った。町年寄は三人から八人もいた時代があったが、天保元年は青物町の加藤又衛門、本三町目の落合長四郎、本四町目の左近司長三郎と鈴木太兵衛、七軒町の佐藤五衛門だった。これら町年寄の指揮を受けて、「上町・下町名主支配区域表」(天保)のように、町が上町では六から一一の組に、下町では八から九の組みに分けられ、各名主の支配単位とされた。

大手橋(絵葉書より)


 これら町政の経費や藩に徴発される公役(くやく)の負担は、町政に発言権を持っていた町屋敷の所有者である町人に限られた。その負担は、平等に分割されたが、道路に面した屋敷地の長さである表間口の間数で決定されていた。水戸の場合は、一つの町の基本である町割りは五〇間と六〇間でなされた。五〇間の中心に一〇間幅の道路を設け、その両側を奥行二〇間の屋敷とした。六〇間は一〇等分されて表間口が六間となり、これで六間と二〇間という長方形の屋敷地が道路を挾んだ一町内に二〇箇所できた。こうして出来た表間口が六間で奥行が二〇間という標準的な屋敷が、一戸前(いっこまえ)とされ、町役負担の基本単位とされた。ただ、同じ表間口六間でも裏通りは半役とされて半分の負担であり、町役人になれば間口帳に記載されてもすべての公課は免除される特権が認められた。
 以上によって、城下の各町人町の屋敷地は町政の基本台帳として、人別帳以外に間口帳が作成された。現在、町の一部だけの間口帳は写本などによって残っているが、町人町全体のものはない。下町に関してだけは、町年寄であった加藤又衛門の筆になる間口改帳や間口帳が「東市街人姓名録」二冊の内に、寛文八年と元禄三年の分が残っている。
 この寛文八年十月十日の「間口改帳」によると、三五町の九一六屋敷で最も多いのは三間の表間口で、全体の三一・四パーセントを占める。つづいて第二位は六間間口で二九・七パーセントとなり、第三位の四間間口の一四・三パーセントと大きな差がある。元禄三年七月の間口は、三二町六三一屋敷について見ると、第一位が二九・五パーセントの六間間口で、第二位は二六・六パーセントの三間間口となり、三位は四間間口である。天保年間では第一位が四三・三パーセントの四間間口で、第二位が三間で第三位は五間と六間の間口になる。全体としては、中心商店街の本町通りと城下町入口にあたる下新町・吉田大工町には六間間口が多く、裏町や周辺商店街である本七町目・曲尺手町・八町目・九町目・十町目には三間間口が多く見られる。
下町の軒数表
(宝永6年)
軒数町数
 
11
21
31
4 
5 
6 
71
81
91
10 
111
12 
134
142
155
161
171
184
192
205
21 
22 
23 
241
25 
26 
27 
281
291
30 
311
32 
33 
341
351
36 
371
38 
39 
40 
731
39

町の軒数表(天保年間)
 上町下町
 
   
3 11
4   
51 1
6 11
7   
8   
9224
10 11
11 22
12   
13 22
14 33
15 11
16 11
17   
18123
19347
20 22
21123
22134
231 1
24112
253 3
266410
27426
28123
29415
30213
31 11
32112
33112
341 1
352 2
36   
37   
38 11
39 11
40   
41   
42   
43   
44   
45 11
364480

平均間口表(天保年間)
上町下町
間口
3.0   
3.11 1
3.2   
3.3   
3.4   
3.5   
3.6 22
3.7 11
3.8235
3.9224
4.0 22
4.1 235
4.2314
4.3 347
4.4  22
4.5 123
4.6  33
4.7 516
4.8 213
4.9 2 2
5.0    
5.1  11
5.2  11
5.3    
5.4 1 1
5.5 112
5.6 123
5.7 4 4
5.8  11
5.9    
6.0 1 1
6.1 1 1
6.2  11
6.3  11
6.4    
6.5    
6.6  22
6.7  22
6.8 2 2
6.9    
7.0    
7.1  11
7.2    
7.3  11
7.4 1 1
7.5    
7.6    
7.7    
7.8  11
7.9    
8.0    
8.1    
8.2 1 1
8.3    
8.4    
8.5    
8.6    
8.7    
8.8    
8.9    
9.0    
9.1    
9.2    
9.3    
9.4    
9.5    
9.6    
9.7    
9.8    
9.9    
10.0  22
364480

上町・下町名主支配区域表(天保年間)
上町(6支配)下町(8支配)
○上金町・鉄炮町○藤柄町・台町・吉田大工町
○下金町○裏一,二町目・十軒町・紺屋町・本一町目・江戸町
○馬口労町○清水町・裏三,四町目・本肴町
○向井町・久保町・新大工町・川和田横町○青物町・本二~四町目・檜物町
○泉町・大工町○本五,六町目・裏五町目・塩町・白銀町
○奈良屋町・和正院町・御宮下町○本七町目・裏六,七町目・材木町
 ○八~十町目・曲尺手町・鍛冶町・赤沼町
 ○下新町
(○印は,支配名主所在の町)(水戸市史より)


大手橋より弘道館


 このように町役や町政に対する発言が出来る資格を明確にする必要もあって、町人町の間口改めにはその居住地の所有権調査も行なわれた。家持ちや地主である町人は屋敷持ちと表記され、町政に参加できる機会があった。自立した生活者であり営業者であっても、借地や借家の町人は店借り町人とされ、表面的には町政に発言権は認められなかった。