諱を堅安と云ひ、通称を又衛門と呼ぶ。
松蘿は其の号にして、水戸下市青物町の人なり。
輿(與カ)聞小識凡十冊ありと云ふ。
東市街人姓名録凡二冊ありと云ふ。
松蘿雑誌凡三冊又松蘿随筆。
水戸御用留等の輯録ある由なり。
簡約にして要を得たる表現である。ただ、「加藤松蘿家・家筋上書扣」によると、通称は又衛門で、諱は賢安、屋敷は本四町目にあったという。これを宝永六年(一七〇九)「間口帳并商売品附」(「東市街人姓名録」)によると又衛門の屋敷は本四町目の北側と青物町(古くは紙町と称す)の西側にあった。もっとも、南北方向に走る青物町の道路に本四町目の道路が東西方向で接することを考えれば、松蘿の屋敷は入口を南(本四町目)と東(青物町)に持つ角屋敷的状況にあった。すなわち、「田町越」町人として草分け的存在であり、町年寄として、豪商として中心的場所に屋敷を構えていたのである。
先祖は、下野国塩谷郡下太田城主加藤監物正の分流内蔵助道重で、無辺流槍術をもって太田資正三楽や下妻城主多賀谷修理大夫重経に寄食した。元亀三年(一五七二)冬、太田城主佐竹義重に廿五貫文で招聘され、居館を磯部村(常陸太田市)に賜った(のちに拾貫文の加増があった)。天正十八年(一五九〇)十二月の水戸城攻めにも加わって、市毛・中台・枝川・勝倉口で戦功があり、翌年主君義宣に従って水戸に移った。しかし、慶長七年(一六〇二)に佐竹氏が秋田国替えとなったときには、七十五歳の考齢を理由に主家を離れている。
その長子は八郎左衛門、内蔵之助景道といい、その子八郎は又右衛門景成と称し、水戸城主武田信吉より大町南側に間口拾五間の屋敷を与えられ、町人となった。水戸徳川家初代の頼房にも大町商人・佐竹浪人の扱いをうけるなど厚遇され、接見が許される「御目見町人」となった。寛永二年(一六二五)の下町の形成である田町御開きのときには、本四町目に屋敷地が与えられ、寛文三年(一六六三)九月に他界するまで御町年寄役を仰付けられ、その役は同系子孫が幕末まで世襲することになる。
初期の城下町割事業の中心的課題であった商工業地区の新設は、城の東部の湿地帯に造成された。そこには台地上の町に対して低湿地帯の町であったため田町とか下町とか、方向により東市とか呼ばれた。集められた町人は、上町の大町・中町居住者や城下外の領内外の商工業者、それに新開発以前からの居住者であった。とくに上町からの移住者は「田町越(たまちごえ)町人」、以前から居住の者は「古来之者(こらいのもの)」と呼ばれ、ともに由緒ある町人として町役を世襲したり、藩主に集団としてではあるが接見を許される「御目見町人(おめみえちょうにん)」の格式があった。約一一〇年後の享保二十年(一七三五)でも、御目見資格を有する町人の六十人中三十九人が田町越町人、残る二十一人が「鍛冶町古来之者」などとあるように以前からの住人として、特権商人になっていた。
とくに加藤家は、大町時代も有力町人であったことから、本四町目においても大きく酒造業を営んだ。なお、居住地以外に所有する屋敷地である抱屋敷(かかえやしき)を、元禄三年(一六九〇)には紙町の間口一三八間のうち二九間を諸役御免で、同十年(一六九七)には紙町で五軒、宝永六年には本四町目に二軒で紙町に五軒を所有する地主的な豪商でもあり、本四町目の屋敷には、宝永六年に家族が六人で、手代を三人、下人を二〇人(内下女八人)の合計二九人が居住していた。
このような家系に生まれた松蘿は、安永八年(一七七九)に没した祖父又衛門の跡を相続し、十八歳で十代目当主として町年寄役となり、御目見格も与えられた。文化九年(一八一二)三月には、「旧記録所持候由ニ而史館方江御用立候様」にと大日本史編さん事業をしていた彰考館に協力を求められたほど、郷土史研究の成果が認められていた。なお、松蘿は、天保二年(一八三一)にその子七郎景安が亡父の跡として町年寄役となったといわれるので、そのころ約七十歳で他界したことになる。
この景安は、同家十一代で、天保十五年の「市中分南組辰御用留」(茨城県立図書館所蔵)によると浜田村庄屋を兼帯している。なお、幕末期の藩内抗争では尊攘派として、幕府より処罰された前藩主斉昭の雪寃願書や身代わり入牢願いを呈し、大いに活躍している。
常陸の旧記・文書・奇事や異聞を編さんした本六町目の油商升屋栗田栗隠は、文政七年(一八二四)に三七歳で他界した。当時、松蘿は六三歳であったことから考えると、両者に年齢の相違はあったが文化人的交流はあったように思われる。
なお、松蘿が集めた筆写史料は、寛永から天明ころまでの覚・御達・願書などを図書として編集した「寛永文書」(十冊)や「松蘿随筆」など一〇〇種が茨城県立図書館に「松蘿館文庫」として、水戸藩の初期法令集である「与聞小識」(九冊本)や「東市街人姓名録」(二冊本の一冊目乾)などが茨城県歴史館にそれぞれ所蔵されている。なお、今回の重要な資料となった間口帳などが集録されている「東市街人姓名録」の二冊目と万治二年・寛文二年・同八年などの間口帳は、加藤家の子孫である大洗町の加藤七郎氏の所有による。
「本肴町裏四町目間口人数間数御改帳」(大洗町、加藤七郎氏所蔵)