市域の拡大

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 明治二十二年(一八八九)の市制町村制実施で、茨城県内では三〇町二〇〇七村から一市四〇町二三五村に統廃合された。水戸は、茨城県令甲第十二号により同年三月三十一日に市制が認められ、翌四月一日に施行した。そして、昭和十四年に日立市が誕生するまで、五十年間にわたって県下唯一の市となる。
 市制施行時の市域は、旧水戸城下の上市(うわいち)と下市(しもいち)、常磐(ときわ)村の一部(元山町・神崎・新大工町・河和田横町・八幡町・谷中など)、吉田村の一部(宮内・坂下・松並・宮下ほか東組の一部・台町西裡の一部・御手洗尻の一部・谷津の一部)、浜田(はまだ)村の一部(銭谷前・瓦谷・田中後の一部・西念寺脇の一部)、細谷(ほそや)村の一部(杉山・渡町・渋田・川岸通・島屋敷・蔵脇・新町・保谷前・船渡・細谷小路・船付・若宮前の一部)であった。これらは、「水戸市街ニ連続シ人情風俗及営業等市街ト同一ナル」によって、編入されることになったのである。
 なお、上市や下市とは、天和三年(一六八三)の町方伝馬定法書に「杉山ヤライ御門御三階下ヤライ御門ヨリ西ハ上町、東ハ下町」とあるより始まる。城郭の西側に形成された町を台地上という地形的なこともあって上町(うわまち)、東側に形成された町をそれが低地にあたることから下町(したまち)と呼んだのである。それは水戸城下の町割の特色ともなって、よく町の性格を表現した用語として現在も利用されている。
 昭和八年三月十五日、水戸市街の西部に位置した東茨城郡常磐村が編入された。常磐村は、明治二十二年当時は戸数三〇〇余あり資力充分で、独立自治体を維持できたが、「水戸市街ニ連軒シテ稍市街ノ形」をなしていたことから全面的に編入されたものである。この村は、「元禄郷帳」では常葉村と袴塚(はかまつか)村からなり、天保十三年(一八四二)に合併して常葉村となり、明治六年に第六大区第一小区に、明治八年には第一大区第五小区と変わっていた。常葉村は、古代の常陸国那珂郡常石(ときわ)郷の本郷地で、元禄年間には二千二百五十四石五升四合、天保年間には三千七十一石四斗五升三合の村高があり、江戸時代の「地理志」によると四二四戸あった。袴塚村は、吉田神社の建仁二年(一二〇一)文書に袴墓(はかまつか)郷とあるのが文献上の初見である。村高は、元禄年間が三百二十八石三升四合、天保年間が三百七十五石二斗二升五合、戸数は八二戸と「地理志」にある。
 ※江戸時代の戸数については、特に注記しないかぎり文化年間の編さんによる「水府志料」「地理志」による。また、元禄と天保の村高は、それぞれの郷帳による。




水戸上下市街略図(明治七年)



水戸上市



水戸下市


常磐地区 町名と戸数
(昭和34年7月1日)
地区・町名戸数
常磐松本町4~5丁目293
愛宕町346
袴塚町499
南袴塚町75
堀原町43
上水戸町175
曙町276
西原町1,156
東原町196
東町244
新原町175
石川町725
4,203

 昭和二十四年十一月三日、東茨城郡吉田村の一部(大字吉田の字天神下、字御手洗尻・字谷津・字瓦台・字千波端・字館下それぞれの一部)が再度境界変更で編入された。