[[昭和二十八年]]

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 昭和二十八年に「町村合併促進法」が成立すると、弱少の町村は住民が行政体を維持する租税負担が出来なくなっていたこともあって、各地で合併が早急に始まった。水戸市も、この法律にもとづき、昭和三十年四月一日東茨城郡上大野村渡里村、那珂郡柳河(やながわ)を編入した。
 
 上大野村は、水戸市の東部に位置する農村であったが、市街の発展によって住民生活が密接な関係をもつようになっていた。明治二十二年以来、何回か境界を変更して水戸市に編入させた部分も多かったが、住民全体の合併要求もあって、このとき全面的合併となった。
 上大野村は、浜田村・細谷村・吉沼村・渋井(しぶい)村・東大野(ひがしおおの)村・西大野(にしおおの)村・圷大野(あくつおおの)村・中大野(なかおおの)村の八村より構成された。このとき、吉沼村だけが一二八戸あったが、他の村は戸数が少なく、自治独立不可能のために合併した明治二十二年新設の村である。浜田村は、吉田神社文書の建久三年(一一九二)四月の「石川家幹譲状(写)」に名があり、元禄年間は五百二十八石五升五合、天保年間は五百四十四石九斗九升七合の村高があり、戸数は二九である。慶長十五年(一六一〇)、伊奈備前守が、村内に千波湖の水を谷田村・六反田村などに流す用水路を掘った。これは備前堀(びぜんぼり)または伊奈堀(いなぼり)とも呼ばれている。現在でもこの堀は用水路の役割りを果たしている。
 明治六年の区制では村が三分割され、本町通りの第一大区第四小区、新町などの第一大区第五小区、酒門村・千波村の第三大区第一小区にそれぞれ編入された。明治八年のときも第一大区第二小区、第一大区第三小区に分割されている。明治十五年には細谷村連合村となり、同十七年には吉沼村連合村となる。
 細谷(ほそや)村は、元禄年間に五百四十一石五斗七升、天保年間には六百二十七石九斗二升八合の村高があり、戸数は一二八戸あった。明治六年の区制では、吉沼(よしぬま)村などと第三大区第四小区、下町(市)の蔵前などと第一大区第二小区に分割された。それが明治八年には、浜田村の一部や下町(市)などと第一大区第二小区、吉沼村などと第三大区第四小区に分割編入される。明治十五年には細谷村連合村、明治十七年には吉沼村連合村と、隣接の浜田村と同じ行政単位に編入されている。
 吉沼村は、吉田神社文書の安貞二年(一二二八)十一月「酒戸・吉沼田地検注帳(写)」にあるのが、初見である。元禄年間には九百三十三石三斗二升九合、天保年間には九百八十七石三斗一升四合七夕の村高があり、戸数は九七戸あった。明治六年以来、大野村地区と共に第三大区第四小区、第一大区第三小区、吉沼村連合村を形成している。
 渋井村は、吉田神社文書の嘉元四年(一三〇六)「大舎人重恒譲状(写)」に「渋江五段」とある。元禄年間に四百六十八石六斗一合、天保年間に四百七十六石九斗六升三合の村高で、戸数は三一戸であり、明治時代の行政単位は、吉沼村と同じであった。
 東大野村、西大野村、中大野村、圷大野村は、寛永十八年(一六四一)には、上大野村東、上大野村西、中大野村、圷大野村と称されていた。上大野村東は、元禄年間には五百四十二石一斗二升七合、天保年間には五百五十石八斗の村高で、戸数は四二あり、天保十三年(一八四二)に東大野村と改称した。上大野村西は、元禄年間に四百五十六石六升五合、天保年間に四百五十石六斗五升の村高があり、戸数は三〇戸で、天保十三年に西大野村と改称された。この二村は共に、明治六年第三大区第四小区、明治八年第一大区第三小区、明治十五年と明治十七年は吉沼村連合村となる。

中大野村絵図(市立博物館所蔵)





上大野地区 町名と戸数
(昭和34年7月1日)
地区・町名戸数
上大野中大野70
圷大野46
東大野77
西大野50
渋井町56
吉沼町193
492

 圷大野村は、元禄年間は四百六十四石六斗九升六合、天保年間は四百六十八石二斗五升五合の村高で、戸数は三二戸あり、中大野村は、元禄年間に五百三十七石三斗六升六合、天保年間に五百四十三石四斗六升二合の村高で、戸数は四三戸あった。圷大野村、中大野村とも、明治六年には第三大区第四小区であったが、明治八年には圷大野村が東大野村、西大野村と同じで、中大野村は吉田村・谷田村・酒門村・若宮村・石川村などと第一大区第四小区を構成した。それが、明治十五年には、圷大野村、中大野村と現在の常澄(つねずみ)村内の下大野村、同十七年には圷大野村・中大野村と常澄村内の島田(しまだ)村・下大野村・平戸(ひらと)村・塩ケ崎(しおがさき)村・小泉(こいずみ)村・川又(かわまた)村などと下大野村連合村となった。